昔、男片田舎にすみけり。男宮づかへしにとて、別れ惜しみてゆきけるままに、三年(みとせ)来(こ)ざりければ、待ちわびたりけるに、いとねむごろにいひける人に今宵(こよひ)あはむとちぎりたりけるに、この男来たりけり。「この戸あけたまへ」とたたきけれど、あけで歌をなむよみて出(いだ)したりける。
あらたまの年の三年を待ちわびてただ今宵こそ新枕(にひまくら)すれ
といひだしたりければ、
梓弓(あずさゆみ)ま弓(まゆみ)槻弓(つきゆみ)
年をへてわがせしがごとうるはしみせよ
といひて去(い)なむとしければ、女、
梓弓引けど引かねど昔より心は君によりにしものを
といひけれど、男かへりにけり。女いとかなしくて、しりにたちておひゆけど、えおひつかで清水(しみず)のある所に伏しにけり。そこなりける岩におよびの血して書きつけける、
あひ思はで離(か)れぬる人をとどめかねわが身は今ぞ消えはてぬめる
と書きて、そこにいたづらになりにけり。
【現代語訳】
昔、ある男が、都から離れた片田舎に住んでいた。その男が宮廷に出仕するといって女に別れを惜しみつつ行ってしまったまま、三年間もやって来なかった、女は待ちあぐねて辛い思いをしていたので、たいそう熱心に求婚してきていた別の男と、「今夜結婚しよう」と約束した、そこへ、先に夫だった男がちょうどやって来た。「この戸を開けなさい」と言って叩いたが、女は戸を開けずに歌を詠んで外の男に差し出した。
<三年もの間ずっとお待ちしましたが、待ちくたびれてしまい、よりによってまさに今夜、私は新しい人と結婚するのです。>
と詠んで差し出したところ、
<いろいろなことがあった年月だったけれど、ずっと私があなたにしていたように、新しい夫を愛し仲良くしなさい。>
と男は言って、立ち去ろうとした。女は、
<私の気持ちをあなたが引こうが引くまいが、私の心は昔からあなたにぴったり寄り添って離れないものでしたのに。>
と言ったが、男は帰ってしまった。女はたいそう悲しみ、男を追いかけたが追いつけず、美しい湧き水が出ている場所に、うつぶせに倒れてしまった。そこにあった岩に指から出た血で書きつけた歌は、
<私はあなたを熱愛しているのに、同じように思ってはくれないで離れていくあなたをどうしても引きとめることができず、私は今にも消え果ててしまうようです。>
と書いて、そこでむなしく死んでしまった。