年月(としつき)に添へて、御息所(みやすどころ)の御ことを思し忘るる折なし。「慰むや」と、さるべき人びと参らせたまへど、「なずらひに思さるるだに、いとかたき世かな」と、疎(うと)ましうのみよろづに思しなりぬるに、先帝(せんだい)の四の宮の、御容貌(かたち)すぐれたまへる聞こえ高くおはします、母后(ははぎさき)世になくかしづき聞こえたまふを、上にさぶらふ典侍(ないしのすけ)は、先帝の御時の人にて、かの宮にも親しう参り馴(な)れたりければ、いはけなくおはしましし時より見奉り、今もほの見奉りて、「亡(う)せたまひにしに御息所の御容貌に似たまへる人を、三代の宮仕へに伝はりぬるに、え見奉りつけぬを、后(きさい)の宮の姫宮こそ、いとよう覚えて生(お)ひ出でさせたまへりけれ。ありがたき御容貌人になむ」と奏しけるに、「まことにや」と御心とまりて、ねむごろに聞こえさせたまひけり。
母后、「あな恐ろしや。春宮(とうぐう)の女御の、いとさがなくて、桐壺の更衣の、あらはにはかなくもてなされにし例(ためし)もゆゆしう」と、思しつつみて、すがすがしうも思し立たざりけるほどに、后も亡せたまひぬ。
心細きさまにておはしますに、「ただ、わが女御子(をんなみこ)たちの同じ列(つら)に思ひ聞こえむ」と、いとねむごろに聞こえさせたまふ。さぶらふ人びと、御後見(うしろみ)たち、御兄(せうと)の兵部卿(ひやうぶきやう)の親王(みこ)など、「とかく心細くておはしまさむよりは、内裏住(うちず)みせさせたまひて、御心も慰むべく」など思しなりて、参らせ奉りたまへり。
藤壺と聞こゆ。げに、御容貌ありさま、あやしきまでぞ覚えたまへる。これは、人の際(きは)まさりて、思ひなしめでたく、人もえおとしめ聞こえたまはねば、うけばりて飽かぬことなし。かれは、人の許し聞こえざりしに、御心ざしあやにくなりしぞかし。思し紛(まぎ)るとはなけれど、おのづから御心移ろひて、こよなく思し慰むやうなるも、あはれなるわざなりけり。
(現代語訳)
年月がたつにつれても、帝は桐壺御息所のことをお忘れになる折とてない。「心慰めることができようか」と、しかるべき婦人方をお召しになるが、「せめて御息所に準ずるほどに思える人さえめったにいない世の中だ」と、万事いとわしいばかりに思うようになってしまわれた。そうしたところ、先帝の四の宮で、ご容貌が優れていらっしゃるという評判が高い方で母后がまたとなく大切に育てられた方を、帝にお仕えする典侍が先帝の御代からの人で、あちらの宮にも親しく参って馴染んでいたので、その四の宮がご幼少の時分から拝見し、今でも時おり拝見して、「お亡くなりになった御息所のご容貌に似ていらっしゃる方を、三代の帝にわたって宮仕えを続けておりまして一人も拝見できませんでしたが、先帝の后の宮の姫宮さまこそ、たいそうよく似てご成長あそばされました。世にもまれなご器量よしのお方でございます」と奏上したところ、「ほんとうにか」と、お心が引かれて、丁重に礼を尽くして四の宮の入内をお申し入れになった。
母后は、「まあ恐ろしいこと。東宮の母女御がたいそう意地が悪くて、桐壺の更衣が露骨に亡きものにされてしまった例も忌まわしい」と、おためらいになり、すらすらとご決心もつかないうちに、その母后もお亡くなりになってしまった。
四の宮が心細いようすでいらっしゃったので、帝は、「ただ、わが皇女たちと同列にお思い申そう」と、たいそう丁重に礼を尽くしてお申し上げなさった。お仕えする女房たちや、御後見人たち、ご兄弟の兵部卿の親王などは、「こうして心細くおいでになるよりは、内裏でお暮らしになって、お心も晴らすように」などとお考えになって、入内させなさった。
藤壺と申し上げる。なるほど、ご容貌や姿は不思議なほど亡き更衣によく似ていらっしゃった。この方は、ご身分も一段と高いので、人の思うところも申し分なく、誰も悪口を申すこともできないので、帝は誰に憚ることなく何も不足ない。あの方の場合は、周囲の人がお許しにならなかったところに、御寵愛が憎らしいと思われるほど深かまったのである。ご愛情が紛れて亡き更衣のことをお忘れになるというのではないが、自然とお心が移っていかれて、この上もなくお慰めになるようなのも、人情の性というものであった。