二
さて、まえにもいった昭和二十七年十一月五日の夜、このアトリエのまえまでさしか
かった山内巡査は、アトリエの窓からもれる明かりを見、思わずぎょっと足をとめた。
その明かりというのは、どうやらマッチの火らしく、一瞬にしてめらめらと消えてし
まったのだから、もし山内巡査がとくべつに、このアトリエに関心をもち、無意識のうち
にも注目していなかったとしたら、気がつかずに通りすぎていたかもしれない。それに気
がついたのが山内巡査の不運だった。
山内巡査は危うく立ち枯れそうになっている、杉の生いけ垣がきに身をよせて、いま明
かりのもれた窓を注視していたが、二度と明かりはもれず、そのかわりどこかで蝶ちよう
番つがいのきしる音がした。だれかがアトリエの扉を開いたのだ。
山内巡査が小走りに、門のほうへ走っていくのと、門のなかからひとりの男が飛びだし
たのと、ほとんど同時だった。相手は山内巡査のすがたを見ると、ぎょっとしたように、
大谷石の門柱のそばに立ちすくんだ。
「君、君」
と、山内巡査は声をかけて、懐中電灯の光を向けながら、その男のほうへ近よった。
懐中電灯の光のなかにうき上がったのは、鳥とり打うち帽子をまぶかにかぶり、大きな
黒眼鏡をかけ、外がい套とうの襟えりをふかぶか立てた、中肉中背の男のすがただった。
男は外套の襟を立てているのみならず、マフラーで鼻から口をつつんでいるので、顔はほ
とんどわからない。
それがいっそう山内巡査の疑惑をあおった。
「君はいまあのアトリエのなかで何をしていたんだね」
山内巡査はするどく訊ねた。
「はあ、あの……」
相手はまぶしそうに懐中電灯の光から眼をそらしながら、低い声でもぐもぐいったが、
山内巡査にはよく聞きとれなかった。
「君はこの家が空き屋だということを知ってるかね」
「知ってます」
相手はあいかわらず低い不ふ明めい瞭りょうな声である。
「その空き家のなかでいったい何をしていたのかね」
「ここはぼくの家ですから」
山内巡査はそれを聞くと、思わずぎょっと相手の顔を見直した。しかし、あいかわらず
鳥打帽子と黒眼鏡、マフラーと外套の襟で顔はほとんどわからない。
「君の名は……?」
「樋口邦彦……」
低い、陰気な声である。
山内巡査は何かしら、総毛立つような気持ちがして、思わず一歩しりぞいだ。かれはこ
こへくるみちすがら、樋口という男のことを考えていたのだ。
「樋口邦彦というのは君かあ?」
山内巡査は思わず問い返したが、相手はそれにたいしてなんとも答えず、あいかわらず
無言のまま門柱のそばに立っている。
山内巡査はまたあらためて、黒眼鏡の奥をのぞきこんだが、あいにく懐中電灯の光を反
射して、眼鏡が黄色く光っているので、その奥にどんな眼があるのかわからなかった。
なるほど、しかし、樋口邦彦なら顔を隠すのもむりはないと山内巡査は考えた。この近
所では顔を知られているのだろうし、昔のあさましい所業を思えば、とても顔を出しては
おけないのだろうと、山内巡査は善意に解釈した。だが、しかし、訊きくだけのことは訊
かねばならぬ。
「しかし、樋口邦彦なら、いま刑務所にいるはずだが……」
「最近出所したのです」
「いつ?」
「一か月ほどまえ……」
山内巡査はちょっと小首をかしげて考えた。このまま見のがしてよいだろうか。……し
かし、なんとなく不安である。
「とにかく、ぼくといっしょにアトリエへ来たまえ。そこで君が何をしていたか聞かせて
もらおう」
しかし、相手は無言のまま門柱のそばを離れようとしない。