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プロローグ 金田一耕助島へいく(1)

时间: 2023-11-28    进入日语论坛
核心提示:プロローグ 金田一耕助島へいく 備びつ中ちゆう笠かさ岡おかから南へ七里、瀬戸内海のほぼなかほど、そこはちょうど岡山県と広
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獄門島(狱门岛)

プロローグ 金田一耕助島へいく

 備びつ中ちゆう笠かさ岡おかから南へ七里、瀬戸内海のほぼなかほど、そこはちょうど岡山県と広島県と香川県の、三つの県の境にあたっているが、そこに周囲二里ばかりの小島があり、その名を獄ごく門もん島とうとよぶ。

 獄門島。──

 このいまわしい名の由来については、昔から郷土史家のあいだに、いろいろと説があるようだが、そのなかで、いちばん妥だ当とうと信じられているのは、元来、この島は北門島とよぶのが正しいという説である。そして北門島という名の由来については、つぎのような考証があげられている。 藤原純すみ友ともの昔から、瀬戸内海の名物といえば海賊であった。往時、赤あか間まが関せきをとおって日本の心臓部に流入する大陸文化の貿易船は、つねに勇敢な瀬せ戸と内ない海かいの海かい賊ぞくになやまされなければならなかった。これらの海賊の勢いにはときに盛衰があったとはいえ、遠く奈な良ら朝ちようの時代から、江戸時代の初期にいたるまで、連綿としてその伝統はうけつがれているのである。わけてもその勢力のいちばんさかんだったのは、吉よし野の朝時代で、六十年にわたる南北朝の抗争史に、瀬戸内海の海賊が、いかに大きな役割をつとめていたか、だれでも知っているとおりである。

 これらの海賊は俗に伊い予よ海賊とよばれ、つねに伊予の海岸線から燧ひうち灘なだ、備びん後ご灘へかけての島とう嶼しよを根拠地としていたが、現今の獄門島は、当時かれらの一味が、北の固めとしていたところで、かれらはこれを北の門とよんでいた。そこから北門島の名が起こり、それがいつか転じて、獄門島となったのである。──と、こういうのである。

 しかしこれには異説があって、これはそれほど歴史的な子細があるわけではない。江戸時代の初期、この島から五ご右衛門えもんという、身長六尺七寸という大男が現われ、それが全国的に喧けん伝でんされた。それ以来、この島は五右衛門島とよばれるようになっていたが、いつかそれが転じて獄門島となったのであるというのである。

 北門島と五右衛門島。──そのいずれが正しいのか、私はいまつまびらかにしえないが、しかしそれが獄門島という、不吉な訛なまりをもってよばれるようになった由来については、だいたい諸家の説が一致しているようである。

 それはこうだ。

 旧幕時代この島は、中国地方の某大名の飛とび地ち領りようになっていた。そのころここは全島赤松におおわれた、花か崗こう岩がんからなる一孤島であり、住むものとてはそのかみの海賊の子孫といわれる、ごく少数の漁師たちが、きわめて原始的な方法で、すなどりに従事しているばかりであった。そこでこの島の開発を思い立った大名は、ここを流る刑けい場とさだめたのである。それ以来、領内の罪人たちのうち、死一等を減じられたひとびとが年々歳々この島へ送りこまれ、そういうところから、いつかここは獄門島と、不吉に訛ってよばれるようになった、ということである。

 それにしても、江戸時代三百年を通じて、この島へ送られてきた不幸な人々は、いったい何人あったであろうか。それらのなかにはのちに赦しや免めんされて郷里へかえったものもあったろうが、なかには生しよう涯がいをここに送って、島の土となったひとびとも少なからずあったにちがいない。それらのひとびとの多くは、海賊の子孫といわれる土着の漁師と婚こん姻いんして子孫を残した。また、のちに赦免されて郷里へかえった人たちのなかにも、ここにいるあいだに、島の娘と契ちぎりを結んで、子どもを残していったものもあるにちがいない。

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