在停战的当天,有一个听到天皇宣布投降的外国人。战时,各国大使馆工作人员都转移到了轻井泽。其中有一位很有名气的法国记者罗贝尔·吉朗。那时待在家里的他正受着监视。那天的中午,与村里人一起站到了收音机前。
隣組長の玄関前に集まった村人は身を固くして頭を垂れた。うやうやしく尊崇の念を払う対象が粗末な椅子の上のラジオだったので、その態度は異様に映ったそうだ
聚集在邻居组长家玄关前的村里人一个个身体僵硬,低垂着脑袋。听人说,由于这位一贯受人恭敬尊崇的对象却坐在简陋的椅子上发表广播讲话,因此,觉得其态度有些异样。
「あちこちで啜(すす)り泣きが起(おこ)り、隊列が乱れた。途方もなく大きな何ものかが壊れたのだ」「彼らは逃げ、自分たちの木造の家で泣くために身を隠した。村は、絶対的な沈黙に支配されたのである」。著書『日本人と戦争』に詳しく記している
“到处传出了唏嘘哭泣声,队列出现了混乱。如同一个庞然大物轰然倒塌了似的”“人们开始四处奔逃,为的是躲进自己木结构的家里号啕大哭。整个村子笼罩在绝对沉默的气氛之中”这些场景均出自专著《日本人与战争》的详细记录。
あの日、どこで何を思ったか。万の人に万の記憶があることだろう。それから70年、鎮魂の8月に玉音放送の原盤の音声が公開された。これまでテレビなどで聞いてきた占領軍の複製より鮮明な印象を受ける。未曽有の戦争を終わらせた昭和天皇の「4分半」である
那一天,身在何处?有何想法?恐怕一万个人就有一万个记忆。从那之后过了70年,在祭灵的8月,这盘天皇亲自宣布的投降书公诸于世。给我的印象是,与之前从电视等媒体听到的由占领军复制的相比,要清晰得多。它记录了昭和天皇用了“4分半”钟的时间宣布,这场前所未有的战争结束。
戦争を続けていれば落命したであろう人々は生き残り、驚異の復興を成し遂げた。とはいえ310万人の日本人戦没者のうち200万人近くは最後の1年の死者だったことを、前に書いたことがある
倘若战争继续下去就要丢掉性命的人们因此而得以生还,并成就了令人惊讶的复兴。在此前的报道中曾经撰文介绍说,即便如此,310万日本战争遇难者中有将近200万人均死于最后一年。
特攻、空襲、沖縄、原爆――多くの悲劇がその間に起きた。時計の針を逆回しして玉音放送を早めていけば、死なずにすむ人は日々増える。戦場になったアジア諸国でもそれは同じだった。8月15日は、遅すぎた終戦の日でもある。
特攻、轰炸、冲绳以及核轰炸,很多悲剧也都发生于这一期间。倘若将时针倒转,天皇亲自讲话早点播放的话,每天就将增加很多不用白白送命的人。在同为战场的亚洲各国也是一样。8月15日也是一个迟到的战争纪念日。