1961年4月、キューバの革命政権の転覆を狙ったアメリカの侵攻作戦はみじめな失敗に終わる。いわゆるピッグス湾事件は誕生間もないケネディ政権の汚点になった。そもそも大統領は作戦に乗り気ではなかったとされる
1961年4月,美国企图颠覆古巴革命政权的入侵行动最后以失败告终。这起所谓的猪猡湾事件成了诞生不久的肯尼迪政权一大污点。其实总统原本并不想诉诸武力。
しかし責任を認め、「勝利には千人の父親がいるが、敗北は孤児である」と語った。うまくいけば我も我もと手柄を誇るのに、不首尾に終われば誰も責任を口にしない。そんな意味なのであろう。新国立競技場をめぐるあきれた無責任ぶりに、この言葉を重ねる人もおられようか
但是,他还是承认自己有责任,正所谓“胜利时会出现一千个父亲,而一旦失败只能是孤家寡人”。意思是搞成了的话一个个都站出来居功自傲,搞砸了谁都不愿意承担责任。不知道在关于新国立竞技场问题上那令人失望的不负责任,是否也会有人用这句话进行对照。
ひるがえって、九州電力川内(せんだい)原発の再稼働である。批判をかわすためか、万一のときの予防線か、責任をあいまいにしたまま、原発回帰への一歩を踏み出した
另外还有一个九州电力公司重启核电站的问题。也不知是因为不愿直接接受批评?还是为了万一出事设置一道防线?总之,在责任含糊不清的情况下,迈出了回归核能发电这一步。
一義的には電力会社の責任だが、再稼働を進めるのは政府だ。その政府は「世界最高水準の基準」だと強調するが、審査役の原子力規制委は「適合しても事故は起きうる」「再稼働の是非は判断しない」と言う。あれやこれや腹に落ちぬことが多い
虽然貌似电力公司的责任,其实极力推动核电重启的是政府。尽管政府反复强调制定了“世界最高等级的基准”,可是,负责审查的原子能规制委员会则认为“即便适用也会发生事故”“对于核电重启不作判断”。总而言之,林林总总很多情况让人心里没底。
もたれ合いの中なら、責任逃れの煙幕も張りやすい。福島の事故は国策と安全神話の破綻(はたん)だった。政・官・学の責任は大きいはずだがうやむやにされて、逃げも隠れもできない住民は故郷を奪われたままだ
倘若真是相互袒护的话,那么施放逃避责任烟幕也是件轻而易举的事。诸如揭示了国策漏洞并打破了安全神话的福岛核电站泄漏事故,政府·官员·学术界理应负有很大责任,却都含糊其辞,使得无处逃生无处躲藏的当地居民不得不离乡背井流落他方。
あす14日から、全国でゼロだった原発の電気が1年11カ月ぶりに送電網を流れる。冷房の風も照明の色も、どこの電気かで違いはない。いつの間にか原発頼みが当たり前の社会に戻っては、福島の教訓が泣かないか。
从明天的14日开始,已经在全国范围内销声匿迹核电站电力时隔1年零11个月将再度流入输电网。无论是空调的冷风还是照明灯光的颜色并不会因为使用了某处的电力而有所差异。值得深思的是倘若在今后的某个时刻再次返回到理所当然地依赖核电的社会时,福岛的教训难道不会欲哭无泪吗?