淡あわ路じ島しま (兵庫県)
交通の要衝だったために「道」と呼ばれた島
『古事記』や『日本書紀』で伝えられる「国生みの神話」には、イザナギノミコトとイザ
ナミノミコトが、天あめの沼ぬ矛ほこで混こん沌とんとした地上をかき回し、次々と島を
つくっていく様子が記されている。
そのときに、天の沼矛から落ちた最初のひとしずくが固まったのが「オノコロ島」で、
これが「淡路島」のことだと伝えられている。記紀の著された時代から、すでにこの島は
重要な土地と認識されていたことがわかる記述だ。
本州側の島にもっとも近い須磨・明石の海岸線からは淡路島の島影がのぞめ、その巨大な
姿は陸地と見まがうほどだ。そして、その遠景には、うすく霞かすんだなかに四国の山並
みを見ることができる。
古代にも、こうして淡路島が島であることを知ったに違いない。平安時代には、すでに
四国とのあいだに船便が開通していて、そのとき淡路島は重要な寄港地だったようだ。
京の都から四国へ向かう船は、阿あ波わ国の港に入った。その阿波への道(路)の途中
にこの島があったため、「阿波路」と書いて「あわじ」と呼んでいたのが、やがて淡路島
という名に変わったのである。
江戸時代は阿波藩領とされたが、幕末維新の混乱のなかで分藩騒動が起こったため、兵
庫県に編入されてしまう。これは、「あわじ」の名をもつ島には不運な出来事だったのか
もしれない。