福井(ふくい) (福井県福井市)
「福」が「居」る場所・福井は、とても縁起のいい土地だった
「福井」は、かつて「越前北きたの庄しよう」と呼ばれ、戦国武将の柴田勝家が居城を置いた地の城下町である。しかし勝家は、織田信長亡きあとの家臣団の争いで豊臣秀吉と対立。北庄城は落城し、勝家も自害して果てた。
その豊臣家から関ヶ原の戦いで権力の座を奪った徳川家康は、この地に庶子の結ゆう城き秀康を送り込む。一六〇一(慶長六)年に彼が築城したのも、やはり北庄城であった。
ところが一六二四(寛永元)年、改かい易えきされた二代藩主・松平忠直に代わって転封されてきた三代藩主・忠昌(忠直の弟)は、北庄の「北」を「福居」に改め、「福居庄」と名付けた。つまり、「福の居る土地」というわけだ。
「北」は敗北や逃げの意味をもつ字だから縁起がよくない、兄の改易もそのせいだと考えたらしい。
ところが、せっかく縁起をかついだ改名だったが、福は居つかなかったようだ。一六八六(貞じよう享きよう三)年に、五〇万石から二五万石に減封され、松平家は越前国主から、ただの福居庄城主に格下げとなる。しかも、その通達書のあて名に、幕府役人が誤って「福井侍従」と記してしまう。
しかし、すでに大名として格下げになっていたため、福居松平家はこの間違いを幕府に申し出て訂正してもらうことを遠慮した。
以来、福井庄が通称として使われるようになり、一七〇一(元禄十四)年作成の国絵図から、正式に福井庄と書き込まれることになったのだ。
その後、いつのまにか「庄」が略されて福井城となり、明治維新後も、その名が地名として使われているのである。