勝山(かつやま) (福井県勝山市)
平泉寺を陥落させ、勝利の歓声をあげた一向一揆
北陸地方は、いまでも浄土真宗(一向宗)の信仰の厚い土地として知られるが、福井県勝山市は、その信仰から生まれた地名だ。
中世の宗教地図は、織田信長が比叡山を焼き討ちしたと伝えられていることからもわかるように、延暦寺がその勢力を広げていた。のちに勝山城下の町として発展することになる越前勝山地方も、平へい泉せん寺じという延暦寺の末まつ寺じが長く勢力をふるっていた。
それが、一四七一(文明三)年、本願寺八世蓮如が吉崎(現・福井県あわら市)に御坊を開いて布教をはじめると、一向宗信仰はたちまち越前国内に広まっていった。
勝山地方は、先に一向宗が広まっていた加賀に近かったこともあり、一向宗の門徒が早くに一揆を起こした。
それは一五七四(天てん正しよう二)年のことで、信長が越前領主の朝倉氏を滅ぼした機に乗じたのである。
越前支配に成功した門徒衆は、長年にわたって苦しめられた平泉寺を攻め立てる。
そのとき本拠にしたのが、平泉寺から四キロほど離れた村岡山だ。
一揆の結束は固く、平泉寺の攻略に成功した門徒衆は、本拠とした村岡山を「かちやま」と名付けた。やがて、これに「勝山」の文字があてられて、城が築かれることになるのだが、それは本願寺領となっていた越前を、信長がふたたび攻めて、柴田勝家の一族の支配にゆだねたあとのことである。
一向一揆は、これを嫌った信長によって征伐されたものの、一向宗の門徒たちの思いのこもった名前だけはいまに残っているのだ。