天王山(てんのうざん) (京都府大山崎町)
京都の小さな山が、勝敗の分かれ目の表現に使われるワケ
スポーツの勝敗、受験、あるいは意を決してのプロポーズなど、将来の命運がかかっている場に臨むとき、決まって引き合いに出されるのが「天王山」という言葉だ。
実在するこの山は、京都盆地の南、桂川と宇治川と木津川の三本の川が合流して淀よど川がわとなる地点のそばにある小さな山の名前。標高はわずか二七〇・四メートルしかない。
ところで、この小さな山の名が人生最大の勝負どころともいえる場面で使われるのは、実際に二人の武将の運命を決めたことに由来する。その二人の武将とは、豊臣秀吉と明智光秀である。
こそ、織田信長を本能寺で討った光秀に、秀吉が報復を果たすことになった山崎の合戦の主戦場となった山である。
「信長死す」の知らせを秀吉が聞いたのは、備中高松城を水攻めしている最中だった。
秀吉はすぐに和議にもち込んで京都へ引き返す。信長を討った光秀は、この秀吉の速攻を予見できずに信長の居城・安土城を攻めて意気揚々としていたくらいだった。
「秀吉戻る」の報にすぐ京都へ向かったが、光秀が出遅れたことは否めない。彼が天王山麓に陣をしいたとき、秀吉はすでに天王山頂上に陣取っていたのである。頂上からのほうが、敵陣の動きを判断しやすいのは当然だ。
そのため、山崎の合戦はわずか半日で終結し、光秀は逃走中に殺害された。秀吉はこの勝利を機として、天下取りに加速する。
ここからいわれはじめたのが「天王山を制す者は天下を制す」という表現だ。その後、これを短縮して「天王山」といえば、そこが重要な勝負の分かれ目になるという意味で使われるようになったのである。