南京町(なんきんまち) (兵庫県神戸市)
神戸の中華街は、なぜ「南京町」と呼ばれるのか?
日本が開国した幕末には、欧米人が続々と来日したが、当然、彼らには日本語がわからない。そこで通訳として伴ったのが、それまで清しん国との通商で英語の心得があった中国人たちであった。日本語が通じない中国人でも、漢字を使えばなんとか日本人との意思の疎通ができたからである。
ただ、一八七一(明治四)年に日清修好条規が締結されるまで、中国人は正規の来日ではなかったため、外国人居留地に住まいを構えることはできなかった。
いちはやく開港していた横浜では、居留地そばの埋立地にある横浜新田が、こうした中国人の住む町となった。そして、その後に来日する中国人たちもその周囲に住まいを構えた。こうして、人口の増加につれて町も広がっていったのである。
一方、同じように開港した神戸では、外国人居留地に隣接して中国人の住む町ができていったが、中国人たちは人口が増えると、日本人との雑居地に移住していくようになる。
当時の日本人は、欧米人を「異人さん」と呼んだのに対して、中国人は「唐人さん」や「南京さん」と自分たちの知っている地名で呼んだ。そこから生まれた町の呼称が「唐人町」であり「南京町」だった。
横浜でもこの名で呼んだ時代があったのだ。
日本に定住した中国人たちは、通訳だけでなく手先の器用さを活かして料理店や針仕事を請け負う店を開き、町は徐々に商店街となっていった。
ところが、戦後になって、唐というのは中国の古代国家名、南京も一地方名でしかないという理由で、横浜は中華街へと呼び方を変えた。
しかし神戸では、日本人との雑居地で暮らし、南京町という呼称にも親しみが芽生えていた。
そこで、あえて変更の必要なしというので、明治時代はそのままの名が使われていたようだ。