私以上に退職を残念がっていたのは、母である。昔から「あんなに泣き虫だったあなたが、先生になるなんてね。」とうれしそうに何度も言った。長時間の勤務、仕事上のプレッシャー、思いもよらぬトラブル…。たまに私が愚痴をこぼすと、「大変だけど、人を育てる仕事はやりがいも大きいし、自分も育っていくことができる、いい仕事と思うよ。」と言う。もしかしたら母は、教師という仕事にあこがれていたのかもしれない。今回の退職も、母にはぎりぎりまで言えなかった。案の定、「もったいないねぇ。何とかならないのかねぇ。」と言った。これまで何とかがんばってくることができたのは、母のおかげである。
洋蘭の鉢植えを抱えて実家に入るとき、もう一度笑顔を確かめた。そして、明るく元気な声で玄関を開けた。「無事、退職しました。
お母さんのおかげです。ありがとうございました。」出迎えてくれた母に華やかな包みを渡すと、下駄箱の上の小さなネジバナの鉢を指して「これもあなたがくれた花だよ。」と言う。「えっ、そんなことあったかな。」「あなたが初任のとき、遠足で子ども達にもらったと大事に持って帰ってきたネジバナだよ。一本だけ根がついていて、毎年咲いてくれるのよ。」…知らなかった。言葉が出なかった。
絶対泣かないと決めていたのに、一番泣いてはいけない場面なのに、涙が溢れて母の顔が見られない。「長い間、本当にご苦労様でした。」いつもと変わらぬ温かい声が私を包む。
あなたの子どもで、本当によかった。最高の贈り物はいつも母からもらっている。