日本文学の中でも、俳句はことに曖昧性の高いジャンルである。わずか①7音で表すことができるのは、ごく小さな世界でしかない。しかし、小さな詩が少しのことしか表せないのでは存在意義がない。小さな形式で大きなものが暗示できてこそ面白いのである。そのためにはあえて言い切らず、ぼかしておく部分が必要となる。
古池や かはづ飛び込む 水の音 (芭蕉)
において、「古池の」とすれば、これはただ「かはづ」を修飾するにとどまる。「古池」を「かはづ」と断絶させるために「や」が用いられる。そのために「古池」から「かはづ」へ直線的に言葉が流れないで切れ目ができる。そこに「それで?」という興味が生じ、余情が誘発される。この余韻は読者によって異なるから、句意も人によって微妙に違ってくる。正に曖昧であるからこそ面白いのだ。このように、俳句ほど曖昧であることに積極的意義を見出している文芸はほかに例がないのではあるまいか。
(外山滋比古「俳句の方法」より)
1、「曖昧であるからこそ面白い」とあるが、どこが面白いのか。
①余韻が誘発され、人によって句意も違ってくること。
②言葉が流れないで切れ目ができること。
③「それで?」「どうして?」という疑問が生じること。
④小さな形式で大きなものが暗示できること。
2、「俳句ほど曖昧であることに積極的意義を見出している文芸はほかに例がない」とあるが、それはなぜか。
①洗練された言語感覚は含みのある曖昧な言葉を選ぶものだから。
②①7音で表すことができるのは、ごく小さな世界でしかないから。
③①7音という小さな形式で、多くのことを暗示する必要があるから。
④読者によって、句意も誘発される余韻も大きく異なるものだから。