何が原因でこうなったのか、と友人が医師に訊ねた。カレイのためだ、との答えだった。カレイとは何であるかが一瞬分からなかった。それが「加齢」のことだと気がついた。( )、「老化」のことですね、と念を押すと、「そうだ」との返事だった。
この頃の医者は「老化」とは言わないんだな、と友人は半ば驚き、半ば感心したように呟いた。それが一般的な傾向であるのか、或いは「加齢」が正式の医学用語であるのか、詳しい知識は当方にない。ただなんとなく、<老化>という表現にこもる衰退感を避けて<加齢>と言い換えただけではないのか、との疑問は残った。<老人>という語を用いずに、<高齢者>と呼ぶのに通ずる心理がそこに働いているような気もした。
老人問題と口にすると、老いた身体と向き合う感じがあるのに対し、高齢者問題、と言い換えたとたんに身体の温もりがすっと遠ざかって、なにやら堅苦しい社会的課題を前にした印象が強くなる。だが、私は、老人でいいではないか、言葉を繕わず<老人>と呼べばいいではないか、と首を傾げたくなる。
とはいえ一方では、<老人>と<高齢者>は同じではない、と思いもある。<高齢者>とは年齢で数えられた区分であり、いわば時間の数量的把握の結果に過ぎない。六十五歳以上であれ、七十歳以上であれ、一本の線を引きさえすれば、<高齢者>は出現する。しかし<老人>の方は、時間の数量のみでは計れぬ要素を孕んでいる。そこには生きた歳月の内に蓄積されて来た質の重みとでもいったものが含まれている。シワの襞やシミによる肌の変色には経験の深みが堪えられ、頭髪の変容には単なる時間の長さではなく、その起伏の影が刻まれているだろう。それらは全てまさに<老人>の特権的所有なのであり、誰でも<( ア )>にはなれるのに対し、本当の<( イ )>になれるとは限られないことになる。だからこそ、<( ウ )>という言葉を用心深く避けて<( エ )>なる表現を用いるのかもしれない。
ところで、<老人>観における男女差には微妙な違いがある。女性には<老婆>とか<老女>といったイメージ豊かな語があるのに、男性の側にはそれに対応するものが貧しい。かつては<老爺>という言葉もあったが、今はほとんど影が薄くなってしまっている。これは女性の方がより豊かな生き方をして来た故なのであろうか。
(黒井千次「加齢と老化」より)
1、「カレイのためだ、との答えだった」とあるが、作者は医者の「カレイ」という言葉を使ったのはなぜだと思ったのか。
①一般的な傾向だから。
②医学用語だから。
③<老化>という語がもつ衰退感を避けたいから。
④理由ははっきりしない。
2、( )に入るものとして、最も適当なのはどれか。
①なるほど
②つまり
③はたして
④いわば
3、「そこに」とあるが、「そこ」は何を指すか。
①医者が「老化」と言わないこと。
②「老人」という語を使わず、「高齢者」と呼ぶこと。
③「老化」という語を使わず、「加齢」と言い換えたこと。
④「老化」という表現を使わないこと。
4、「起伏の影」という語の説明としてふさわしいのはどれか。
①経験の深み
②豊かな生き方
③波乱に富んだ人生
④失敗と挫折の歴史
5、「だが、私は、老人でいいではないか、言葉を繕わず<老人>と呼べばいいではないか、と首を傾げたくなる。」とあるが、筆者はどうしてそう思ったのか。
①老人が老いるのは当然のことであり、あるがままに語ればいいと思うから。
②老人は誰でも自分の老いた体と向き合わなければならないから。
③老いることは、単に年齢という時間の数量のみでは計れぬものだから。
④高齢者という語には、老人を差別する意味合いを含んでいるから。
6、ア~エに入る語の組み合わせとして正しいのはどれか。
①ア:老人 イ:高齢者 ウ:高齢者 エ:老人
②ア:老人 イ:高齢者 ウ:老人 エ:高齢者
③ア:高齢者 イ:老人 ウ:高齢者 エ:老人
④ア:高齢者 イ:老人 ウ:老人 エ:高齢者
7、「影が薄くなって」とあるが、この文章ではどのような意味で使われているか。
①元気がなくなる
②あまり使われなくなっている
③暗い場所に隠れている
④薄くぼんやり見える