珈琲物語
僕にとって最も貴重な時間は、お気に入りの喫茶店でキリマンジャロを飲むひとときだった。バランスの取れた酸味と苦味。そしてコク。
しかし、口の中に広がる豊かな芳香も雑味の無い後味も、去年のあの日だけは全く感じることができなかった。
愛子とはもう3年の付き合いだった。僕にとって愛子は最も大切な存在だったが、同時にこのキリマンジャロと同じように、僕の生活の一部になっていた。僕にとっての最も貴重な時間は「キリマンジャロを飲むひととき」ではなく、「愛子とふたりでキリマンジャロを飲むひととき」なのだ。
僕はひとくちコーヒーを飲んだ。しかしその味はいつもと違って、ただ苦いだけのまずいものだった。僕は普段ブラックコーヒー以外は飲まなかったが、初めてコーヒーに砂糖を入れてみた。ぐるぐるとスプーンでコーヒーをかき混ぜ、さらにクリームもたっぷりと注いだ。コーヒーに浮かぶクリームがきれいな渦巻き模様を描いた。一瞬、僕の心が和んだ気がしたが、次の瞬間には再び僕の心は苦いだけのまずいものになった。
「亮介にとっては、わたしよりそのコーヒーの方が大切なんだわ。きっと??????」
僕はイライラして、きれいに渦巻き模様を描くのにカップに乱暴にスプーンを突き刺した。
「あぁ、そうかもな! コーヒーは文句を言わないからね!」
「さようなら、亮介。」
あの日以来、僕はコーヒーを飲むのをやめた。いや、やめたのではなく、飲みたいと感じなかったのだ。
1年後の今日、1年前と同じ店に僕はいる。あの日以来初めて口にするコーヒーはどんな味がするのだろうか。ただ苦いだけの味だろうか。僕のテーブルにコーヒーが運ばれるのと同時に、ドアが開くベルの音が聞こえた。
「ひさしぶりね。亮介。」
「あぁ。ひさしぶりだな。愛子。」
「相変わらずコーヒーを飲んでいるのね。」
「1年ぶりのコーヒーだ」
「えっ? どうして?」
「飲みたくなかった。」
「嫌いになったの?」
「いや。最初から何も変わってはいない。」
「どういうこと?」
「僕は最初から、愛子がそばにいてくれて飲むコーヒーが好きだったんだ。今も昔もそれは変わらない。」
僕は1年ぶりにコーヒーカップを口元に運んだ。懐かしい香りが以前の記憶を僕に思い出させた。愛子に初めて出会った頃の記憶から、まるでビデオを早回しで見るように記憶がよみがえり、去年のこの喫茶店でビデオはプツンと途絶えた。僕は口元まで運んだカップをそのままソーサーに戻した。
「わたしがいるのにコーヒー飲まないの?」
「なにも、愛子が僕の半径1m以内にいればいい。。。。。。 という訳じゃないからね。」
「。。。。。」
愛子はしばらくして言った。
「じゃあ、これから毎日。。。。。。。 わたしがいれたコーヒー飲む?」
僕は伝票をつかむと立ち上がった。
「愛子。コーヒー豆を買って帰ろう。」