なぜ八〇〇メートルを始めたのかって訊《き》かれたなら、なんて答えたらいいんだろう。陸上競技をやりたければ、一〇〇メートルでも五〇〇〇メートルでも、もちろん、もっとマニアックにいけば、円盤投げだっていいはずだ。
でも、ぼくは八〇〇メートルという距離を走ることが気にいっている。
それは、不思議な長さだ。
一〇〇や二〇〇みたいに、決められたコースをただ思いっきり走ればいいってもんじゃない。あんなのは何も考えないでできる。本当は考えるんだけどね。スタートとか腕のふりかたとか、いろいろ。
五〇〇〇メートルなら、ともかく持久力。中高生にとって、やっぱり五キロを速く走るっていうのは、スタミナが勝負。
その点、八〇〇メートルは違う。短距離なみのスピードで、四〇〇メートル・トラックを二周(TWO LAPS)する。しかも、コースはひとりひとり分かれてなくてオープンだから、駆け引きがある。勝とうと思ったら、かなりの速さで走りながら緩急をつけなきゃならない。
八〇〇っていう長さを決めた人は天才だって、ときどきぼくは感じる。
中学に入学して陸上部にはいって、そのときは八〇〇メートルなんて考えてもみなかった。足は前から速かったから、トラックをするつもりではいたけど。ロング・ジャンプも少しやってみたかったかな。
一、二年のころは、一〇〇と二〇〇を走ってた。まあまあの短距離選手だった。遅くはないよ。でも、そう注目されるほどじゃない。
悔しいけど認めてしまえば、短距離っていうのは、才能なのだ、たぶん。努力してどうなるかっていうのは、もちろん、努力しなきゃだめで、努力すれば速くなるんだけど、絶対的なところで、生まれもっての才能なんだって気がする。
ぼくにだって、ある程度の才能はある。高三まで続けてたら、電気計時で11秒ちょっとか、うまくいけば一度は10秒台が出せるくらいのランナーにはなれると思う。
インターハイにとどくかっていうのは、スプリント種目で安定した成績を残すには相当の実力が必要だから、断言できない。だけど、一〇〇メートルしてて、全国のトップ・レヴェルは、きっと無理だ。
そんなに計算づくでしたわけでもないんだけど、四〇〇と八〇〇を、去年、中学三年の春から始めた。ちょっと距離をのばしてみたつもり。
これが苦しかった。一〇〇や二〇〇の調子で走れる限界は、三〇〇メートルぐらいにあるんだと思う。最初のうちはそこを越えると、フォームがばらばらになってしまった。
からだがほどけてしまうようで、アゴがあがって、ストライドだけがのびてバタバタ。夏に走り込んで、ようやくこなせるようになった。全国中学生大会には間に合わなかったけど。
結局、中学生としては最後の試合になった秋の終わりの市内中学対抗戦では、八〇〇が一位、四〇〇が二位だった。ちょっとしたものでしょう?
特に八〇〇のほうは大会新。中距離への転向は見事に成功したって言っていいよね。
もちろん、そんなことどうだっていい、といえばいえる。
ひとより速く走るなんてことにね、何の意味があるかって考えると、意味はないんだ。でも、そんなことをいいだしたら、すべてのことが無意味だ。走るのだって、勉強するのだって。おそらく、生きていること自体が。
ただ、たぶん、ひとつだけは、はっきりしてるんじゃないかと思う。
ぼくは、ぼくのからだが好きなのだ。八〇〇メートルを走っているときのぼくのからだが。それが、どんなふうに動いて、どんなふうに感じて、どんなふうに苦しんでいるかが。
この種目をやろうと思えば、六〇〇メートルまでは、だれだって走れる。
その、市の大会のときだってそうだった。
一周目を回ってきたときは、先頭集団の一番後ろで位置をキープしていた。六人のかたまり。結構いいペースだったんで、飛び出さずについていった。
こういうときには集団の中にいると、全体に巻き込まれてスパートできなくなったり、逆にまちがったタイミングで速く走らされたりしちゃうから、いつでも抜けられるところにいたほうがいいのだ。
バック・ストレートにはいって、集団がくずれるのを待った。実力的にこのままで全員がスピードを維持できるようには思えなかったから。
八〇〇メートルっていう種目は、結局、「抑制」なんだって思う。自分のからだ中の筋肉に気をつかって、コントロールして抑える。どれだけうまく抑えて、無駄なエネルギーを使わなかったかが、最後の勝負にひびいてくる。
先頭の集団が細長くのびてくるのを、ひとりずつ、直線で抜いていった。
コーナーにさしかかったところで、二番になっていた。先頭にいるのは、前の年、二年で優勝してて、今日もいちばん最初にコールされたやつ。そのまま抑えてついていった。そして、最後の直線に出るところで、一気に第二コースにふくらんで、並んだ。
そこでもう、勝ったってわかった。
ぼくは一〇〇メートル・ランナーだったのだ。スプリントで負けるはずがない。ていねいに、ていねいに、ラスト・スパートをかけた。予定どおり。
あとで、コーチからビデオを見せてもらって少し驚いた。
ぼくのあとでゴール・インしたのは、ぼくが最後に抜いた選手ではなかった。むちゃくちゃなフォームの、やけに背の高いやつだった。名前も聞いたことのない。