ぼくの部屋に山口がいる。
こういう状況、妹以外の女の子とふたりだけでぼくの部屋にいるというのは、初めてではないのかも知れないけれど、初めてだ。
山口の長い髪が、ぼくの手にすべる。それは細くて茶色がかっていてさらさらしている。
午前中の海がキラキラと光っているのが窓から見える。ぼくの部屋もとても明るい。
いつもの朝のように一緒に電車に乗ってJRまで出たのだけれど、ぼくたちは、そのまま離れたくなかった。ぼくが、今日は学校サボっちゃおうかな、と言ったら、簡単に山口は賛成した。
「私は慣れているの」
山口は身体が弱く、小さいころから学校をよく休んだ。実際、小学校のときには入院による出席不足で留年しかかったという。
結局、折り返しの電車でぼくたちはもどってきてしまった。服装の規定のないぼくは、Tシャツにジャケットでジーンズだったけど、山口の制服姿は目立つのではないかと心配した。
でも、すれ違うひとが見つめたりしても、山口はひとつも気にとめていないようだった。ふだんと同じようにぼくに話しかける。
ぼくの家にだれもいないのはわかっていた。それでも、なんとなく息をひそめるようにして鍵《かぎ》を開け、そっと階段を上った。
窓から海を見ている山口を後ろから抱きしめると、あまりに細くて柔らかいのに驚いてしまう。
カバーをしたままのベッドの上に横になった。
ぼくの腕を枕にして、山口は相原さんのことを話す。ぼくはそれを聞くのが好きになっていた。ふたりの初めてのデート。初めてのキス。待ち合わせの店を勘違いして、お互いに二時間も待ってけんかになったこと。初めてのセックス。
それらは無限に続く物語のように思えた。
ぼくは、電車の中でも、コーヒーを飲みながらでも、駅のホームでも、山口から相原さんの話を聞いていた。山口は、大切に大切に記憶をさぐる。言い間違いをしたら、エピソード自体が壊れて失われてしまうかのように。
山口の相原さんとの思い出は、話されることにより神話となって、ぼくたちに共有される。
へえー、そんなことがあったの。
そのときには、どんなふうに思ったの?
それで?
ふーん。
気持ちよかった?
ぼくは、山口のブラウスのボタンを全部はずした。山口がことばにつまると、励ますために脇腹に触れる。くすぐったがって、山口が笑う。振動がぼくに伝わる。
ぼくは山口の目からあふれる涙にキスするのが好きだ。相原さんのことをしゃべりながら流れ出す涙に。
それは意外に塩からくて、海の匂いがする。鼻水だって吸ってあげるよ、と言うと、山口は声を出して笑って起きあがり、ぼくの上にかぶさると、ぼくの唇を軽く噛《か》む。ぼくの舌の先が山口の舌の先端をとらえる。
試合の前日、海岸で最初に相原さんのことを聞いたとき、ぼくは驚いた。ことばが出なくなった。
戸惑っていたのだ。ぼくが好意を感じ始めていた女の子が、相原さんのことを好きだったという偶然に対して。
ぼくは、ふだんは「偶然」なんてことを信じない。いや、逆にすべてのことが「偶然」で、常に理由なく物事は起こるのだから、特に「偶然」と呼ぶものなんてないと思っていたのに。
そして、その相原さんは、もうこの世に存在しないのだ。
八〇〇メートルの話になった。
そう、ぼくたちは、ぼくと相原さんはTWO LAP RUNNERだ。
「あなたのフォームが相原さんに似ているんで、怖くなったわ」
ぼくは、相原さんが走っているビデオを持っていた。それは特に相原さんだけを撮ったものではなく、陸上部員の研究用に、ひとりひとりの走っている姿が写されているものだ。
それを今の山口に見せてもだいじょうぶだろうか。新たな悲しみを呼び起こすことにはならないだろうか。走り終わった相原さんは、カメラに向かいおどけてVサインをしているのだ。
ぼくは、暗記するくらい繰り返しそのビデオを見ていた。ぼくのフォームは、似ていて当たり前だ。ぼくは自分のからだに、ぼくの身近に知る最強のTWO LAP RUNNERである相原さんをダビングしようとしていたのだから。
それとも、山口はすでにこのビデオを見ている、あるいは持ってたりもするのかも知れない。このことを、どう切りだしたらいいかわからない。
ぼくは山口のスカートのホックをはずす。山口は腰を浮かす。
そのとき、玄関でガチャガチャと鍵の音がした。続いてドアが開いたようだった。母親が急用で帰ってきたのかも知れない。すぐに、ぼくたちの靴に気づくだろうか?
うちの親は、理解があるというよりは自信がないので放任している、と評論家風に言ってみようかな。学校をさぼって、女の子とふたりでいることも、たぶん、どうってことはない。適当な嘘を信じようとしてくれるだろう。服さえ着ていれば。
階段を上がる音が結構すばやい。
ノックの音。セーフ。
「なんだ、お兄ちゃんたち、寝てなかったの」
妹は、許可を求めるわけでもなくずんずんと部屋にはいりこみ、ぼくの机の回転いすにお尻《しり》からチョコンと跳び乗っては一周させる。
学校はどうしたの、とぼくが訊《き》く。
すると、妹は、ゆっくりと、
「学校はどうしたの?」
山口とぼくの顔を半分ずつ見ながら言う。
困ったやつだ。
「ここで問題です。1、私には霊感がある。2、隣のおばさんが目撃し母親に連絡、ただちに駆け付けるように私に指示が届いた。あんまり、ありそうもないなあ。3、……」
「電車がすれちがうところで見つけた」
それまでベッドの上に横座りし、髪を手でなでつけていた山口が急に口を開く。
「当たり。スゴイ」
「わあー」
妹と山口は手をとりあって喜ぶ。
ぼくは何をしていたらいいんだろう。
「もう、寝てるころじゃないかと思ったのに」
妹が山口に言う。
「うん、今からするところだったの」
山口は、ブラウスのボタンをいじりながら答える。
ぼくは山口を、そして妹を見る。