中沢が、
「無理して、つきあわなくたっていいのよ」
と、ぼくに言った。陸上競技場のフェンスを乗り越えてからだ。
でも、ぼくは、
「男子50メートル平泳ぎ、決勝」
と、だけ答えた。
中沢は、
「よっしゃ」
と、変な返事をして、走り出した。
フフッ、と小さく伊田さんが笑った。
伊田さんも走り始めたので、中沢の後を追いかけたのかと思った。でも、10メートルほどで、そこに見えないハードルがあるかのように右脚を振り上げ、両腕で上体のバランスをとり、強く左脚を引き付け、またぎこした。
伊田さんのウォームアップ・スーツの紫が、水銀灯の下で曲がり、伸び、躍動した。
ぼくが追いつくのを待っていて、
「どう? 見てた?」
と、伊田さんは訊《き》いた。
「すごい。完璧《かんぺき》」
伊田さんは、声を立てて笑い、
「わかるはずないよ、いまので」
そう言うと、また、笑う。
ぼくたちは、みんなひどく陽気になっていた。アルコールのせいもあっただろうし、さっきまでいた競技場の雰囲気から解放されたこともあったのだろう。
ぼくが「完璧」と言ったのは、ハードリングのフォームのことではない。伊田さんのことなのだ。彼女のからだは、パーフェクトだった。
素晴らしいスプリンターでありハードラーである伊田さんと並んで、ぼくは、ひとりでずいぶん先まで走っていってしまった中沢を追う。
忍び込んだ夜のプールは水面が静かに揺れていた。コース・ロープは、ついてなかった。
ぼくと中沢は、シャツを脱いですぐに飛び込んだ。水音が響くかな、と思ったけど、ここは合宿所からはだいぶ離れてるし、もう細かいことはどうでもいいような気がしていた。
水は思ったよりも暖かかった。外の気温の方が下がっていたのだろう。
3コースと4コースの台の上にのぼった。うしろに回って伊田さんがスターターをする。
「マジね」
中沢が念を押すので、
「うん」
と、答えた。
台を蹴《け》って飛び込むと、パンツの中に水がブハッという感じではいってきておかしかった。でも、ぼくは真剣に平泳ぎをする。
ランナーは一般的に、よいブレストのスイマーになれると思う。クロールというのは、なんと言っても腕にかかる比重が大きい。投擲《とうてき》以外の陸上選手は、脚の筋肉の発達の方が著しいのだ。
平泳ぎなら、ぼくはたいていの水泳部のやつよりは速くて、クラス対抗の試合では、優勝が争えた。おもに海で泳いでいるせいもある。プールと違って波のある海では、顔の出せる平泳ぎが楽だ。
でも、なによりも、ぼくは八〇〇メートル・ランナーだ。かなりのピッチで水をかいたところで、ぼくの筋肉はそれに耐えられるし、その気になれば、三〇や四〇メートルは息継ぎもいらない。
でも、中沢だってTWO LAP RUNNERだったのだ。同じく酸素負債に耐えるし、こいつの長身はぼくよりも水泳向きの体型と言えるかも知れない。
ぼくはゴールの両手をプールの壁に少し強くついてしまった。手首に軽い痛み。はあはあしながら直立する。
ほぼ、同着だった。
「うえっ」
中沢がプールの中に何か吐いた。
「かなぶん、食っちまった」
水面には確かに、緑と濃い茶色とをした虫が鈍く光り、もがいていた。夜のプールにそれは、とても似合っている気がした。
「うおっ」
本当にうるさいやつだ。
今度はかぶと虫でも食べたのかい、とか冗談を言おうと思って中沢を見ると、壁を背にして動けなくなっている。
その理由はすぐにぼくにもわかった。
ほとんど音も立てず、水しぶきもあげない、きれいなクロールがこちらに向かっていた。水面から突き出される腕は、かなぶんよりも輝いていた。
50メートルを泳ぎ切った伊田さんは、ぼくと中沢の間の壁に片手を伸ばしてタッチし、そのままそこに立つと、濡《ぬ》れた髪をかきあげた。陽に焼けていない胸がくっきりと白いのが、水の中にあってもわかった。彼女は小さなパンティを身につけているだけみたいだった。
ぼくたちは、泳ぎ、水をはねかえし、もぐり、こどものように遊んだ。
プールサイドに上がっては、中沢のバッグに一本だけ残っていたビールを回し飲みした。そんなときも伊田さんは、まったく臆《おく》せずに、彼女のからだをぼくたちの視線にさらしていた。
それは、当然のことだ。隠すのではなく、むしろ誇らしくみせびらかすべきものだ。伊田さんのからだは「完璧」だったのだから。
ときおり雲から出る月が伊田さんの太腿《ふともも》に反射した。彼女の肌はオイルを塗りこめたように黒く輝く。
予想外の展開だった。それは三人ともそうだったに違いない。でも、ぼくたちは、その夜を楽しんだ。
巡回の警備員が近づくのも気づかないくらいに。