「何か見えるか」
「いいや」
「おや、あれは何だ」
低いうめき声が微 かす かに聞こえてきた。今度は左手だ。岩の尾根の片端が切りたった断
崖になって、そこから岩だらけの傾斜地が見おろせた。その岩だらけのスロープの上に、
何か黒いぼんやりしたものが見えた。駈けていくと、その形がはっきりしてきた。それは
うつぶせにたおれている男で、恐ろしい角度で首筋が折れて胴体の下にまげられ、肩をま
るめ、その身体は弓なりに曲がっていたが、この男は断崖の上からもんどりうって落ちた
ようだ。その言語に絶する凄絶 せいざつ な光景に、私はさっきの断末魔のうめきがこの男の声で
あったと、とっさに信じられなかった。私たちがその上にかがみこんでみると、この男は
小声も立てず、微動だにせず、すでにこと切れていた。ホームズは手を出して、その死体
を起こそうとしたが、急に恐ろしい叫び声をあげた。彼のすったマッチのかすかな光り
が、その硬直した指と、砕けた頭蓋 ずがい から徐々に流れ出して、ひろがっていく血のりを照
らし出した。その照らし出された姿に、私たちは息をのみ、気が遠くならんばかりであっ
た。……サー・ヘンリー・バスカーヴィルの死骸だったのだ。
その赤色がかったツイードの服は、私たちがベイカー街で彼と初めて会ったときに着て
いたもので、忘れようのないものであった。それをはっきり見てとると、マッチの光りが
ゆらめいて消えた。最後の望みも絶え果てたようだった。ホームズはうめいた。その顔が
蒼白になっているのは夜目にもわかった。
「畜生! 畜生!」私はこぶしを打ちふって叫んだ。「ああ、ホームズ、彼をこんな運命
に追いやったのは僕の責任なんだ」
「もっと非難されていいのは君よりも僕のほうだ、ワトスン。事件を手ぎわよく片づけよ
うとしたのが、かえって依頼者の命を絶つことになってしまったのだ。これはこれまでに
振りかかったことのない最大の打撃だ。しかし、なんとしてもわからない。あれほどの僕
の警告をおかしてまで、どうしてひとりでこの沼地にさまよい出てきたのかなあ」
「彼の悲鳴を……あの悲鳴を聞いておりながら、しかも助けることができなかったと
は! 彼を死に追いたてたあの悪魔犬はどこにいるんだ。あのときはきっとこのへんの岩
の間に潜んでいたのかもしれない。そしてステイプルトン、奴はどこにいるんだ。この仇
はきっととってやるぞ」
「もちろんだよ。今に見ているがいい。伯父と甥 おい がふたりとも殺されたんだ……ひとり
はその動物を見て、伝説の怪獣だと思って恐怖のあまり死んでしまうし、もうひとりはそ
れから無我夢中で逃げているうちに、死に追いやられてしまったんだ。今度は僕らはその
けものとあの男との関係を調べてみなければね。僕らはその吠えるのは聞いたが、そのけ
ものが実際にいるとは言いきれない。サー・ヘンリーは崖から落ちて死んだんだからね。
何と悪がしこいやつだ……しかし、後一日と言わぬうちに、やつの正体をつかんでやる
ぞ」
私たちはこの惨死体をはさんで沈痛な思いを噛みしめていた。長い苦心の果てが、この
突然の取りかえしのつかぬ惨事になって痛ましくも終ったことは、諦めようにも諦めきれ
ぬものがあった。