「いや、それよりも不思議なのは犬そのものだ……僕らの臆測があたっているとした
ら……」
「なにも不思議はないさ」
「なぜだい、じゃ、なぜその犬は今夜に限って放されたんだ。そいつが毎日放されて沼地
をかけまわっているとは思われないね。ステイプルトンはサー・ヘンリーが沼地に出てき
たという確信がなければ放さないと思うが」
「僕の疑問はもっとそれよりも根の深いところにあるんだ。君の疑問はすぐにでも解ける
と思うが、僕のはいつまでも謎だな。目下の問題は、このあわれなやつの死体をどうする
かだ。まさか狐や鴉 からす にまかせておくわけにもいくまい」
「石室にいちおう入れておいて、警察に連絡するとでもしようか」
「それがいい。ふたりがかりでも、そう遠くまで運べないからな。おや、ワトスン、これ
は何だ。来たよ、あいつが。まあ、何てずうずうしいやつだ。だが、疑ぐっているような
ことは、ひとことも言っちゃ駄目だぜ……本当にだよ。言うと僕の計画はおしまいだから
な」
人影が沼地をこえて近づいてきた。葉巻のにぶい赤い火がぽつりと浮いて見える。月明
かりに照らされた男は、小柄のちょっと取りすました歩き方をするステイプルトンとわ
かった。彼は私たちを見ると立ちどまったが、すぐ近づいてきた。
「ワトスン先生じゃありませんか。こんな時間にここでお会いするなんて、思いがけませ
んでしたよ。おや、これは何です。誰か怪我でもしたんですか。まさか、サー・ヘンリー
じゃありますまいね」
彼は私のそばをすりぬけ、その死体の上にかがみこんだが、思わず手にした葉巻を落と
して息をのむのが聞こえた。
「誰です……これは誰ですか」彼はどもった。
「セルデンです。プリンスタウンから脱獄した男ですよ」
ステイプルトンは真蒼な顔をこちらに向けた。しかし驚くべき努力でその驚きと失望を
おしかくして、鋭くホームズから私へと視線をうつした。
「何とむごたらしい事件だ。どうしてこういうことになったのです?」
「あの崖から落ちて頚筋 くびすじ を折ったらしいですね。僕とワトスン君は叫び声を聞いたと
き、この沼地をぶらぶらしていたのです」
「その叫び声は私も聞きました、それでここに出てきたんです。サー・ヘンリーのことが
心配になっていましたからね」
「またどうして、サー・ヘンリーのことが、とくに気になるんです?」私は訊かざるを得
なかった。
「どうしてと言っても、今日はあの人を招待していたのですよ。いっこうお見えにならな
いので心配した矢先に、驚きました。沼地であの叫び声でしょう。彼の身を案じないわけ
にはいかないじゃありませんか。それにしても……」
彼の目はふたたび私からホームズへすばやく移った。「何かほかの声をお聞きになりま
せんでしたか」
「いや、あなたは聞かれたのですか」ホームズは言った。
「いいえ」
「じゃ、なぜそういうことをお聞きになるんです」
「農夫どもが話しているまぼろしの犬のことなど、ご存じでしょうに。夜になると、この
沼地でその声が聞こえるというのです。今晩、何かそんな声が聞こえなかったかと思った
ものですからね」
「そんなものは何も聞こえませんでしたよ」私は言った。
「このあわれな男は、いったいどうして死んだんでしょうね、あなたはどう思われます
か」
「見つかったという不安が、彼の頭を錯乱させてしまったんですよ。狂気のようにこの沼
地を走りまわっているうちに、ここに落ちて頚筋を折ってしまったんじゃないでしょうか
ね」
「それが最も確かなところでしょうな」ステイプルトンはそう言って、ほっとして息をつ
いたようであった。「あなたどう思われます、シャーロック・ホームズさん」
彼はちょっと会釈をしていった。
「よく私がおわかりですね」
「ワトスン先生がいらしたんですから、あなたがこちらに見えることはわかっていました
よ。この惨事を見るのに間にあわれたと言うわけですな」
「そういうことになりますね。私もワトスン君の説明が事実のとおりだと思います。明日
は後味の悪い気持でロンドンに帰らねばなるまいと思っています」
「明日、おかえりになるんですって」
「そのつもりです」
「あなたがお出でになったので、今まで私たちを悩まし続けた一連の事件に解決の道をつ
けていただけると思っていましたがね」
ホームズは肩をすくめてみせた。
「いつも思うように成功するとは限りませんからね。調査するものに必要なのは事実なの
で、伝説とか噂はあらずもがなです。まったく満足な結果の得られぬ事件でしたよ」
ホームズは例のとおりに率直にそして淡々と話していた。ステイプルトンはしばらく彼
を見つめていたが、私のほうに向きなおった。
「このあわれな男を私の家へ運んでやったらと申したいところですが、妹がこれを見ると
驚くでしょうから、それもおすすめできず、このまま顔の上に何かかけておけば、明朝ま
では大丈夫でしょう」
そこで死体はそのままにしておくことになった。ステイプルトンのたっての招きを断
わって、私たちはバスカーヴィル邸へ向かい、ステイプルトンをひとりで帰らせた。ふり
かえると、その人影が広い沼地の向こうへゆっくりと動いているのが見え、その背後には
あの悲惨な最後をとげた犠牲者が、銀 しろがね の沼地の傾斜に、にじんだように横たわっていた。