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クライマーズ・ハイ23

时间: 2018-10-19    进入日语论坛
核心提示:     23 悠木は天井を見つめていた。 煙草の脂で黄ばんでいる。いや、視界そのものが黄色味掛かっているのかもしれない。
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      23
 
 悠木は天井を見つめていた。
 煙草の脂で黄ばんでいる。いや、視界そのものが黄色味掛かっているのかもしれない。大部屋のソファにいることはわかっていた。ここに倒れ込んだ時には、窓の外はもう白んでいた。ならば四時頃まで飲んだということか……。それとも五時近かったか……。
 夢を見ていた。
 安西耿一郎の夢だった。病室に見舞いに行ったがベッドは蛻《もぬけ》の殻だった。壁に殴り書きが残されていた。「ウソつき」。夢の中で悠木は思った。衝立岩を一緒に登る約束を破ってしまった。だから安西は一人で谷川に向かったのだ、と──。
「そろそろ起きますか」
 顔の真上に、依田千鶴子の笑った顔があった。垂れた髪が悠木の鼻先に触れそうだ。
「ん、ああ……何時だ?」
「もう十時です。何か飲みます?」
「いらない」
「お水とか?」
「いや、いい」
 悠木は千鶴子が腰を伸ばすのを待って上体を起こした。タオルケットを掛けていたのに気づいた。宿直室に寄った記憶はないから千鶴子の気配りだろう。
 悠木は首を回した。
 社会部長席──。
 空席だった。当たり前だ。時間が早い。このだだっ広い大部屋に今いるのは、悠木と千鶴子と、あとはビル清掃会社の従業員だけだった。
「農二は?」
 悠木は訊いた。テレビは点いているが、ここからでは遠くてスコアが見えない。
「すっごく勝ってますよ」
 千鶴子は嬉しそうに言い、手にしていた雑巾をチアガールが使うポンポンのように振った。
 甲子園は今日の第一試合が群馬代表農大二高の二回戦だった。ナインの一人の父親が、この試合の応援に行くため羽田から123便に搭乗し、罹災した。
「神沢は?」
 悠木が訊くと、千鶴子は机を拭いていた雑巾の手を止めた。
「帰ったみたいですよ。宿直室にはいませんでした」
「そうか……」
 ぼんやり考えるうち、別の話を思い出した。
「依田──」
「はい?」
「お前、秋異動で外勤に出るんだと?」
「あ、聞きました?」
 千鶴子の顔がパッと輝いた。
「聞いた。前橋支局らしいな」
「もう私、嬉しくて嬉しくて」
「お前、幾つだ?」
「えーっ!」
「覚悟しといたほうがいい。毎日あちこちで聞かれるぞ。北関初の女記者だからな」
「初じゃないですよ。文化部の平田さんがいますから」
「あれは記者じゃない。ホステスだ」
 悠木は苦々しく言った。
「やるならちゃんとやれ。チヤホヤされるのは最初だけだ。じきに飽きられる」
「は、はい……」
 会話の間中ずっと覗いていたビーバーのような前歯が消えていた。
 悠木はソファから腰を上げた。自分でもわかるほど汗臭かった。クーラーの冷気はまだ部屋全体に行き渡っていない。
「悠木さん」
「ん?」
 千鶴子はぺこりと頭を下げた。
「いろいろ教えて下さい。お願い致します」
「何もない」
 記者の素っ気なさには慣れているとばかり、千鶴子はたじろぐでもなく、デスクに向かう悠木の背中を追ってきた。
「本当は警察を最初に担当するといいんですよね」
「そうだ」
「あ……でも……」
 悠木は原稿を仕分けする手を止めて振り向いた。
「でも何だ?」
「あ、いえ、何でもありません」
「いいから言ってみろ」
「ええ、一応っていうか、一週間だけ警察の記者クラブで研修するんです」
「だからどうした?」
「あの……キャップの佐山さんてどんな人です?」
 言いながら、千鶴子は勝手に赤面した。佐山は三十半ばになるが、いまだ独り身だ。
「奴のことなら知ってるだろう?」
 悠木が言うと、千鶴子は顔の前で忙しく手を振った。
「だって、警察廻りの人たちって、滅多に上がってこないんですもん」
 悠木は宙に目をやった。昨日の佐山の台詞が耳にあった。現場のことは現場で考えます。いらん口出しはよして下さい──。
 おそらく、悠木が佐山の立場だったとしたら川島を見捨てていた。這い上がる意思のない人間に何本ロープを垂らしてやろうが無駄なのだ。意思ある人間はロープなどなくても必ず這い上がってくる。
 千鶴子は答えを待っている顔だった。
「佐山は──」
 幾つか浮かんだ形容詞の中から選んだのは、悠木自身、意外なものだった。
「あったかい男だ」
 千鶴子を喜ばそうとしたわけではなかった。できる記者。できない記者。それ以外の表現で部下を評したのは初めてのことだった。
「あ、悠木さん」
 声に顔を向けると、広告部の宮田が大部屋に入ってきたところだった。「登ろう会」の宮田、といったほうが悠木にとっては身近な感じがする。
「あの」
 宮田はもうそこまで来ているのに傍らの千鶴子が呼ぶので、悠木はきつい視線を向けた。いつまでもベタベタと──。
「二十七歳です」
 唐突に言った。千鶴子の顔は真剣だった。
「私、二十七歳です。このチャンスを絶対逃したくありません。どんなことがあっても頑張ります。ご指導、よろしくお願い致します」
 何もない──喉まで出掛かったが呑み込み、背筋の伸びた千鶴子の後ろ姿を見送った。
 入れ代わりに宮田の顔が近づいた。難しい顔だった。
「どうした?」
「いえね、さっき外回りの途中で安西さんのところに寄ってみたんですが……」
 宮田は隣の椅子を引き寄せながら話を始めた。安西のことだろうと想像はついていた。病状が悪化したのかと悠木は構えたが、宮田の話はまったく予想外のものだった。
 病室に安西の昔の山仲間が見舞いに来ていたのだという。末次《すえつぐ》と名乗ったその男が語ったところでは、以前安西はザイルパートナーを衝立岩で亡くし、それ以後、山岳界の表舞台から姿を消した──。
「悠木さん、知ってました?」
「いや……」
 動揺と呼べるほどの波立つ思いが、悠木の胸に広がっていた。
「だけど、悠木さんと行くはずだったんですよね、衝立岩に」
「ああ」
「なぜパートナーを亡くした山に……」
 そういうことだ。悠木は自分を落ちつかせようと腕を組んだ。
 下りるために登るんさ──。
 悠木は宮田を見た。
「その末次って男はもう帰ったのか」
「図書館に行ったと思います」
「図書館……?」
「県立図書館の道順を聞かれたんです。会ってみます? 間に合うと思いますよ、三十分くらい前のことですから」
 悠木は立ち上がった。
「どんな風体だ?」
「ああ、すぐにわかります。すごく小さい靴を履いてましたから」
「何?」
「小学生が履くようなサイズです」
 悠木は思い当たった。その顔を見て宮田が頷いた。
「きっとそうです。足の指を全部、凍傷でなくしてるんだと思います」
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