テールリッジからアンザイレンテラスまでの行程は、衝立岩の真下を歩く感覚だ。
悠木は前を行く燐太郎の背を追って、一歩一歩、岩盤を踏みしめながら進んでいた。左肩を掠めるようにして衝立岩の垂壁が天に向かって立ち上がっている。その質感は圧倒的だ。
燐太郎が足を止め、衝立を見上げた。ルートを観察しようとしているらしい。首が辛そうだ。懸命に反らした体が背後に倒れてしまうのではないかと心配になる。真上を見る、とはそういうことなのだ。
「あとほんの少しです」
悠木に告げて、燐太郎はまた歩き出した。
その言葉通り、五分も歩かないうちに灌木帯に差し掛かり、そこを登り詰めると視界が開けてアンザイレンテラスに到着した。二人がこれからアタックする雲稜第一ルートの取付点だ。
さっそく登攀《とうはん》準備を整える。九ミリザイル二本。カラビナ。ハーケン。アブミ。細引ロープを輪にしたシュリンゲ。クライミング・グローブ──。
「十五分後に取りつきましょう」
燐太郎が落ちつき払った声で言った。
「わかった」
悠木は内心胸を撫で下ろした。ここまでの行程で息が上がってしまっていたからだった。それに、「これから衝立をやる」という覚悟もまだ固まっていないような気がしていた。一度|填《は》めたクライミング・グローブを外した。深呼吸をして、ゆっくりと周囲を見回す。
「しかし、アンザイレンテラスとはよく言ったもんだな」
アンザイレン──互いにザイルを結び合う。ここでその作業を行い、パートナーの心を一つにして、いざ登攀となる。
悠木は先に小さく笑ってからまた口を開いた。
「そうそう、君の名前はそのアンザイレンになるはずだったんだよな。安西連太郎を詰めて安西連──君のお母さんが反対してなかったら、今頃アンザイレンテラスにアンザイレン君がいたわけだ」
「悠木さん、その話、誰から?」
「えっ?」
燐太郎の真顔を見て、却って悠木のほうが驚いた。
「聞いたことなかったかい?」
「いえ、そうではなくて、母が反対したというところです」
「反対したんだろう、お母さんが。安西はそう言ってたよ」
「母から聞いた話は違いますけど」
燐太郎は表情を曇らせた。
「連太郎にしたいと父が突然言いだし、母は黙って頷いたそうです」
「その話、本当かい?」
燐太郎は頷き、話を続けた。
「父は市役所に出生届を出しに行って、二時間ほどで戻ってきたそうです。で、名前を変えた、燐太郎にした、そう母に告げたんです」
悠木は狐に摘まれた思いがした。
「さっぱりわからないな。どういうこと?」
燐太郎は少し悲しげな顔になった。
「きっと、父さんはその二時間の間に決めたんだと思います。息子は山に連れていかない、決して山を教えないって」
「あ……」
悠木は思い当たった。
遠藤貢──彼を死なせてしまったからだ。その不幸な事故の三月後に燐太郎が生まれた。安西は迷っていたのだ、山を続けるか、やめるか。燐太郎。その名こそが安西の出した結論だったということか。
燐太郎は静かに言った。
「父はずいぶん苦しんだと思います。僕とどう付き合っていいかわからなかった。父さんの愛情表現は山を教えることしかなかったと思うんです」
「父」と「父さん」が渾然としていた。
「僕も苦しかったです。父の態度がぎこちなくて、いつも不安な思いでいました。父の抱えていた辛さはわからなくても、持て余されている、ということはわかってしまうんですね」
「安西は愛してたさ、君のこと」
思わず悠木は言葉を挟んだ。
燐太郎は素直に頷いた。
「そうだと思います。でも、その思いを僕に伝えられなかった。そして、伝えられないまま眠ってしまったんです」
「うん……」
「だから僕はもうどうしていいかわからなかった。やがて、母も遠くなっていってしまいましたから」
悠木は遠い記憶を辿っていた。
あの日、病室で目にした小百合の華やいだ様子が思い返された。
大恋愛の末に駆け落ち同然に結ばれた夫婦。だが、安西の所属していた北関の販売局は夜の接待が仕事のような部署だった。安西は平日は飲み、日曜祝日は「登ろう会」を率いて山歩きをしていた。蜜月時代などとっくにアルバムの中の思い出に変化していたとしても、駆け落ちまでして一緒になった小百合の心のどこかに置いてきぼりを食わされた寂しさが潜んではいなかったか。
安西が眠りにつき、小百合は再び安西との蜜月を手に入れた。絶望の傍らに温もりがあった。小百合は一日中でも安西の体温を感じていられた。死んだのではなく眠っていたことが、狂おしいまでに安西を愛させたのだと今にして思う。
「あの頃、僕は悠木さんだけが頼りでした。会いたくて会いたくてたまらなかった」
燐太郎の言葉には、悲しさも恨みがましさもなかった。ただ懐かしさだけがあった。
「今日は俺が君に頼るさ」
悠木は衝立岩を見上げた。
凄まじい光景だ。
覆い被さってくるかのようなオーバーハング帯。この逆層の壁は、まるで天空に住む巨人の屋敷から迫《せ》り出した庇《ひさし》だ。目指す雲稜第一ルートは、頭上にのし掛かる最初の関門、第一ハングを乗り越して、さらに上部へ延びている。そこはまた、落石によって遠藤貢が命を落とした場所でもある。
悠木は唾を呑んだ。ごくりと音がした。
「岩に触ると落ちつきますよ」
燐太郎の言葉に無言で頷き、悠木はそっと手を伸ばした。
触れた。冷たい。無機質な感触。これまで登ったゲレンデの岩の感触とはどこか違う。高さ三百メートルの垂壁にかかる圧力がそう感じさせるのか。生まれて初めて衝立岩と対峙する緊張ゆえか。だが──。
恐ろしさだけではなかった。
手のひらを通じて岩の重厚なエネルギーが伝わってくるかのようだ。しばらくそうしているうち、不思議と心が静かに、そして澄んでいくような気がした。
「やろう」
自然と言葉が口をついて出た。
「やりましょう」
燐太郎は穏やかな表情で悠木を見つめた。
風が吹いた。
悠木は岩肌から手を放し、もう一度、衝立岩を見上げた。
拒絶。そして、誘惑──。
あの日、覚えた感情に似ていた。
日航機が墜落して五日目だった。昭和六十年八月十六日。それは、群馬の一地方紙が世界最大のスクープに果敢に挑んだ日だった。