JR前橋駅まで末次を車で送り、その足で県央病院に向かった。朝起きて、安西の夢を見たと気づいた時からそうする気でいた。
数分前まで助手席は賑やかだった。いやあ、タクシー代助かっちゃったなあ。車中の末次は最初の豪放磊落型に戻っていた。安西夫婦の馴れ初めや、安西が北関に入社した経緯などをおもしろおかしく語った。自分のことは何も話さなかった。どこの山岳会に所属しているかも、これまでどんな山に登ったのかも。そして、小さな靴が既に語り始めていた凄絶な山行のエピソードさえも。車を下りる時、末次はふっと真顔になって言った。安西が目を覚ましたら電話を下さい。悠木は思った。末次こそが、安西や遠藤に山を教えた男ではなかったか。
悠木が病室のドアをノックしたのは正午近かった。
「どうぞ──」
応じた小百合の声には快活な響きがあった。どこか救われた思いで入室すると、すぐに燐太郎の顔が目に飛び込んできた。ベッドから少し離れたパイプ椅子に腰掛け、黄色いゴムボールを弄《もてあそ》んでいた。よう、と声を掛けると、思春期の少年らしい中途半端な会釈をした。頬を赤らめたのは、二日前、一階のロビーで悠木にむしゃぶりついた記憶が蘇ったからだろう。
「すみません、お忙しいでしょうに」
悠木はたじろいだ。それほどまでに小百合の表情は明るかった。いや、単に明るいのではない。場違いな感想だろうが、「綺麗になった」が当たっているような気がした。
悠木はベッドサイドに立った。
安西は今日も目を開いていた。瞳の輝きは驚くばかりだ。顔色も決して悪くない。声を掛けたい衝動に駆られたが、反応がないとわかった時の落胆を思うとなかなか言葉が出てこなかった。
遷延性意識障害。イメージが湧かない。やはり、「植物状態」が言い当てた表現なのだろうと思う。
「悠木さん、どうぞ座って下さい。いまお茶淹れますから。あ、冷たい物のほうがいいかしら? 麦茶とかオレンジジュースとかもありますけど」
「お構いなく。すぐにお暇《いとま》します」
「そんなあ、ゆっくりしてって下さい。安西がガッカリしますから──ねえ、あなた」
艶っぽく言って、小百合は安西の頬をそっと撫でた。
悠木は困惑していた。
二日前の、無理して作っている笑顔とは明らかに違った。病室内を甲斐甲斐しく動くさまには活気のようなものさえ感じられる。
だから思わず尋ねた。
「いい検査結果が出ましたか」
「あ、まだ何もわからないんです」
表情は曇ったが、それだけだった。小百合は冷蔵庫から麦茶を出してコップに注ぎ、ニッコリ笑って悠木に差し出した。
覚悟が決まった。そういうことだろうか。
だが、たった二日で……。
小百合はかなりの頻度で安西に視線を向ける。微笑みかけることもある。末次は「二人は大恋愛の末に駆け落ち同然で結ばれた」と時代掛かった言い方をしていた。夫婦仲がいいことは悠木も知っている。だが……。
悠木は何やら居心地の悪さを感じていた。自分が二人の邪魔をしている。そんな気になってきたのだ。
燐太郎を振り向いた。所在なげだ。
十三歳。小百合が待ち望んでいた子。遠藤貢が死んだ三月後に生まれた。それもこれも末次から聞かされた話だった。
話題を見つけて声を掛けた。
「農二は勝ったんだろ?」
「あ、はい。九対一で」
「へえ、ずいぶん頑張ったんだな」
「はい。打ちまくりました」
話に乗ってきている感じだ。
悠木は、燐太郎が手にしているゴムボールを目で指した。
「野球好きなの?」
「いえ、別に……」
「ちょっとやろうか、キャッチボール」
「えっ?」
燐太郎は病室の中を見回した。
悠木は笑った。
「外だよ、外。芝生のところがあったろう」
「あ、はい」
燐太郎はどぎまぎした顔だ。
悠木は腰を上げた。小百合はこっちに背を向けて、安西の手をおしぼりで拭いていた。
「奥さん。ちょっと燐太郎君を借りますよ」
「すみません。お願いします」
小百合は嬉しそうに言って頭を下げた。その姿がまた、人払いを果せたことを喜んでいるように目に映って悠木は戸惑った。
強引に頭を切り替えた。そうそう長居はしていられないのだ。キャッチボールの後はそのまま社に向かうつもりだから、車中思いついたことを実行に移した。
「奥さん、安西が使っていた手帳とかはありますか」
「ええ、あります。倒れた時も持っていましたから」
「それ、二、三日、貸していただけないでしょうか」
「構いませんけど、なぜ?」
小百合は一瞬訝しげな表情を覗かせた。
悠木は言葉を選んで言った。
「安西が倒れた時のことですけど、ちょっと様子がわかりづらいですよね。真夜中の二時だったのに一杯も飲んでいなかったとか。ですんで、私なりにちょっと調べてみようと思いまして」
「そうですか……。ありがとうございます」
さほど刺激しないで済んだようだった。小百合は迷いのない足でロッカーのほうに向かった。
安西の当夜の足取りを調べようと思ったのは本当だった。仕事だったのか、そうではなかったのか。酒も飲まずに歓楽街で何をしていたのか。しかも倒れたのは、悠木と衝立岩に登る約束をした日の前夜だったのだ。
さっき末次から聞かされた様々な逸話も頭にある。そうしたものとの繋がりも含め、安西の行動の謎を繙《ひもと》いてみたいと考えていた。
「これですけど」
小百合が黒革の手帳を差し出した。
「お借りします」
悠木は手帳の中身を見ずにズボンのポケットに差し入れた。ドアの外で、不安げな表情の燐太郎が待っている。
「さあ、やるか」
「はい」
エレベーターで一階に降り、通用口から外に出た。芝生とばかり思っていた緑は一面雑草の広場だった。
「ほい、よこせ」
二人の距離をとりながら明るく声を掛けると、燐太郎がゴムボールを放って寄越した。あまり運動神経はなさそうだ。投げ方がぎこちない。
二度、三度、ボールをやり取りするうち、淳が幼かった頃、やはりこうしてよくキャッチボールをしたことを思い出した。
「じゃあ、カーブ行くぞ」
「えっ?」
「ちゃんと捕れよ」
悠木はゴムボールに指を深く食い込ませてサイドスローで放った。ボールは燐太郎の手前でククッと左に曲がり、正面で捕れると思って構えていた燐太郎の脇を通過していった。
燐太郎はそのまま動かなかった。一拍遅れて首が回り、ボールの行き先を確かめた。戻した顔に上気した笑みが広がっていた。
「すごい」
「だろう?」
悠木も自慢げに微笑んだ。
燐太郎がボールを拾いに走り、遠投のような投げ方で返してきた。
「今度はドロップだ」
「ドロップ?」
「いまどきはフォークとも言う」
おどけてみせ、さっきと同じ要領でボールがひしゃげるほど指を食い込ませると、今度はオーバースローで投げた。
燐太郎は胸の辺りに両手を構えた。が、ボールはクククッと大きく沈んで、狙い澄ましたように燐太郎の股間にぶつかった。
「あ……」
燐太郎の体が「くの字」に折れた。手は股間を押さえている。ゴムボールだ、痛くはないはずだ、そう思った時だった。
顔を真っ赤にした燐太郎が声を上げて笑った。つられて悠木も大声で笑った。
それから、どれくらいボールをやり取りしただろう。
悠木のベルトでポケベルが鳴り続けていた。
燐太郎は聞こえないふりをしていたのだと思う。
あと五分。そして、また五分。
燐太郎のささやかな我が儘に付き合う心の余裕が、今の悠木にはあった。
日航全権デスク──本当の意味で、その任を引き受けた気がしていた。
詳報に全力を注ぐ。
機があらば勝ちにいく。「大久保連赤」の轍は決して踏まない。負けは負けとして認め、後に続く者たちに引き継ぐ。
またドロップを投げた。脳裏には淳の暗い顔があったが、慌てふためく燐太郎の姿が目に心地良く、いっとき悠木を父親の顔にさせた。