豪華な新館が建ったのもわかろうというものだ。午後五時を過ぎたというのに、森総合病院の一階ホールでは驚くほど大勢の患者が診察の順番待ちをしていた。
「口腔外科」の前の長椅子にも、二十ほどの頭があった。悠木は長椅子の前に回り込み、角張った赤ら顔を探した。
いない。ならばもう自宅に帰ったということか。ことによると社に上がったか。いや、暮坂は休みをとって御巣鷹に登った。それに今日は土曜日だ。五時を回れば広告フロアに人はいない。
悠木は受付カウンターに寄った。入院患者に暮坂の名がないことを確認すると、踵を返して玄関ドアに向かった。その時だった。
背後から声が掛かった。
「よう、久しぶりだな」
振り向くと、上品な顔立ちの背広が立っていた。県警の志摩川《しまがわ》。知らなければ会社員と見間違う。悠木より二つ三つ年嵩の、刑事畑のサラブレッドだ。現在は確か本部の鑑識課長だったか。
「御無沙汰でした」
五年前、県警担当を離れて以来の再会だった。にもかかわらず、瞬時、最近会ったような錯覚にとらわれたのは、テレビに映し出された御巣鷹山の現場で、薊《あざみ》機動隊長とともに出動服姿で指揮を執っているのを目にしていたからだった。
「現場はいいんですか」
「新聞読んでないの?」
「どういう皮肉です」
「身元確認は歯型と指紋」
「なるほど」
志摩川の肩ごしに「口腔外科」のプレートが見えていた。
「しかし、県警もとんでもないものを背負いこみましたね」
「お互いさまだろ」
「ええ、実際、手も足も出ません」
「それは禁句だよ」
「えっ?」
「ウチも北関も地元なんだから」
志摩川の穏やかな表情は変わらない。
「なぜ飛行機は飛ぶのか。その辺りからボチボチやっていくさ」
悠木はハッとした。佐山が同じようなことを言っていたのを思い出したからだ。あれは志摩川の台詞だったのか。県警は近いうちに、課に準じる「事故対策室」を立ち上げるという話だ。極めて緻密でクールな頭脳を持ち、それでいて下からの信望も厚い志摩川は、その室長の筆頭候補と目されている。
「ま、長丁場になるけどね。逃げるわけにはいかないよ。ジャンボ機は間違いなく群馬に落ちたんだからね」
悠木は眉間を突かれた気がした。
やる気なのだ、捜査を。
端から頭になかった。到底、県警の手に負える事故ではない、県警の人間もそう思っているのだろうと高を括っていた。昼間、社で「刑事事件追及」の共同電を読んだ時も、だから「警察庁」の活字しか目に入ってこなかった。だが──。
この男はやる気だ。自らの手で、未曾有の巨大航空機事故の刑事責任を追及する気だ。
翻って思った。
北関は、悠木自身は、この巨大事故とどう向き合ってきたか。
「じゃあな。三年ぐらいしたら、また会えるだろう」
そう言い残して、志摩川は去っていった。
三年先……。
そういうことか。
五百二十人の死者を出した日航ジャンボ機墜落事故の立件──。
悠木は宙を見つめた。
その時こそ、北関は神沢を必要とする。事故直後の惨状を目の当たりにし、心の深いところで涙し、日々、憑《つ》かれたように御巣鷹山に登っている。神沢しかいない。立件までの千日、逡巡なく県警の捜査を追っていける記者は、神沢をおいてほかにない。
焦りに似た思いを胸に抱き、悠木は病院を飛び出した。