[書き下し文]子曰く、弊れたる(やぶれたる)薀袍(うんぽう)を衣て(きて)、狐貉(こかく)を衣る者と立ちて恥じざる者は、それ由か。支らず(やぶらず)求めず、何を用ってか(もってか)臧し(よし)とせんや。子路、終身これを誦す(しょうす)。子曰く、是の道や何を以て臧し(よし)とするに足らん。
[口語訳]先生が言われた。『ぼろぼろの綿入れの羽織を着て、狐や狢(むじな)の高級な毛皮を着た人と並んで立っても恥ずかしく思わないのは、子路くらいのものであろう。「他人を妬まず、求めなければ、どうして善人でいられずにいられようか。」という古い詩に子路はふさわしい男だ。』。子路はこの言葉を喜んで、死ぬまでその詩を口にしていた。それを聞いて先生は言われた。『その振る舞いを立派であるが、善の実践はそれだけで十分というわけではない。』
[解説]孔子は、ボロの衣服を着て高価な衣服を着た貴人の前に出ても、まるで卑屈になるところのない子路の豪胆さと誠実さを高く評価していた。並の人間であれば自分の身なりが貧しければ精神も貧しくなってしまうが、子路はどのようなボロを身にまとっていても君子としての気高い精神を捨て去ることがなかったのである。しかし、それに喜び勇んだ子路に対して、孔子は『虚栄心や見栄の体裁を捨て去るだけで善人になれるわけではない』と窘めているのである。