[書き下し文]逸民(いつみん)は、伯夷(はくい)、叔斉(しゅくせい)、虞仲(ぐちゅう)、夷逸(いいつ)、朱張(しゅちょう)、柳下恵(りゅうかけい)、少連(しょうれん)。子曰く、その志しを降さず(くださず)、その身を辱め(はずかしめ)ざるは、伯夷・叔斉か。柳下恵、少連を謂わく。志を降し身を辱めたるも、言(げん)は倫(みち)に中たり(あたり)、行は慮(のり)に中たる、それ斯れ(これ)のみ。虞仲、夷逸を謂わく。隠居して放言し、身は清に中たり、廃は権に中たる。我則ち是に異なり、可も無く不可も無し。
[口語訳]隠者は伯夷、叔斉、虞仲、夷逸、朱張、柳下恵、少連。先生が言われた。『自分の志を高く保ち、その身を潔癖に守ったのは、伯夷・叔斉兄弟である。柳下恵・少連を評価すると、志は低く下がり、その身は汚れてしまった。しかし、その発言は正義の道に適っており、行動も思慮のあるものであった。それは素晴らしい。虞仲・夷逸を評価して言うと、彼らは世を捨てて自由な言論を行い、自分の身を清潔に保っており、隠棲のやり方も程よいものであった。しかし、私は彼らとは違う。(自由無碍の境地で状況を見極め)主君に仕えるべき時には仕えて、仕えるべきでない時には仕えないのである。』
[解説]孔子が、高邁な志と潔癖な倫理を持っていた隠者(隠棲の士)をそれぞれ評価した章で、主君への忠義を貫いて餓死した伯夷・叔斉を讃え、それ以外の隠者についても言及している。しかし、孔子は自分の思想はそれらの俗世を捨てた隠者とは異なり、状況や大義を見極めながら仕える主君を選んでいきたいと言っている。