大村はまさんは長い間東京で中学の国語の先生をしており、国語の教科教育で有名な先生です。大村さんの随筆集『教えるということ』のなかにこういう話があります。
ある時、大村さんが師匠筋にあたる先生を訪ねた。その先生曰く「大村さんは熱心で、生徒にも好かれているようだが、まだ達人には至らないだろう。教育の達人とはこういうものだ」というのです。
つまり、あるとき、雨上がりのぬかるんだ坂道を、男が重い荷車を引いて上がってきた。そしてぬかるみに轍(わだち)を取られてにっちもさっちもいかなくなって苦労している。このときそれを見ていた人々の反応はいろいろであった。ある人は自分のことは自分ですべきであるとして、知らないふりをして通っていく。ある人は頑張れよと励ましの言葉をかけて過ぎていく。ある人は同情して一緒に後ろから押してあげる。最後にお釈迦様がそこを通りかかった。しかしお釈迦様の姿はその男には見えません。お釈迦様はその男の難儀を見て、その男の背中を軽くすうっと、押してやった。その力に助けられて男はぬかるみを抜けて坂の上に達することができた。お釈迦様の姿は見えませんから、男は助けてもらったことに気づかずに自分の努力で困難を乗り越えたと満足している。教育とはこのお釈迦様のようにあるべきだ、というのです。
確かに、放っておくのも教育だし、励ますのも、手助けしてやるのも教育でしょう。しかし知らせずして本人に自信をもたせる、これができたら見事といわざるを得ません。