井上幸治さんはカルメル修道会の神父さんです。いろいろ迷い悩んでいた学生の頃、前世紀末に若くして亡くなったカルメル修道会のテレジアという修道女の残された手記を読んで、フランスに渡ってその修道会に入り、何年か勉強して帰国した人です。その著作『人はなぜ生きるか』のなかで、テレジアについて、彼女はある時後輩から悩みの相談を受けて、「困難はそれと戦ったり、その上を乗り越えたりするものではなく、その下をくぐり抜けるものだ」と答えたというエピソードを紹介しています。
つまり戦ったり、乗り越えたりするものとして困難を考えることは、困難を自分の外の、固定化したひとつのものとして扱うことです。この様なとき、相対的に自分のほうが強ければ、困難を蹴散らすことができるでしょうが、向こうが強いときはやられてしまいます。そして何よりも自分はある意味では困難の外にいますから、困難と肌をあわせることはありません。場合によってはその解決を他人に依託することもできるのです。だから困難から新しい経験を得たり学んだりすることがない。それに対してくぐり抜けるときは、困難のなかに入り込みますから、困難にじかに触れざるを得ません。苦難の火の粉を浴び場合によっては、やけどもします。しかしくぐり抜けるのですから、困難の外に立つのではありません。その場面では、困難を引き受けて、困難とともに生きるのです。そういったとき、いわばマニュアルはありませんから、頼りになるのは忍耐と、その時々の工夫です。
人生のなかで、日々我々は困難に面します。避けては通れないし、かといっていちいち戦っていては身が持ちません。ともに生き、柔軟にくぐり抜けるのでなければなりません。さらに困難にそのようなやり方で触れることによって、こちらも学ぶことがたくさんあり、自分も変化し、成長します。もっといえば、困難とともに生き、それに触れて、くぐり抜けることを、生きるというのではないでしょうか。しかしそのときは、困難はもはや困難でなくなっています。