これは私自身のことです。もうだいぶ前の話ですが、友人数人と箱根へ行きました。箱根は関所の跡が博物館になっており、そこに昔のいわゆる山駕篭が展示してありました。箱根越えをするとき乗るものです。山駕篭というのは、大名駕篭と違いますから、それは意外と小さいものでした。そこで一同の共通した感想は、「小さいなあ」、「これでは窮屈だなあ」というものでした。しかし、そこを通り過ぎてしばらくして、顔を見合わせて笑ってしまいました。みんなで誰からとなく気づいたことがあったからです。それは、全員が、駕篭を見たとき、何も考えずに乗る立場にたってしまって、だから小さいなあといってしまったことです。しみじみと互いを見回したところ、この顔ぶれのなかに、その当時生きていたとして、駕篭に乗る身分だと思われる者はひとりもいません。きっと担いでいたほうの連中ばかりです。いい世の中になったおかげで、こうしてのんきに見物などしていられるわけです。
駕篭を見ると乗るものと思います。しかし駕篭は担ぐものでもあります。また縄をない竹や木を組み合わせて作るものでもあります。人には先入観があり、それにとらわれますから、大多数は乗るものと思ってしまうのです。同じ駕篭も立場によっていろいろであることにはなかなか気づきません。
同じ駕篭でも乗る立場からみるのと、担ぐあるいは作る立場からみるのではすっかり違ったものになります。大切なのは、ものや事柄それ自体ではなく、ものや事柄に対する関わり合いです。そこを柔軟にしなければいけないということです。