これも禅の言葉です。禅の言葉はなかなか人の思いつかないようなところを突いてくるものです。
百尺というからかなり長い竿があります。旗竿や物干し竿の長いものを想像して下さい。その竿へ登っていきます。頂上まで登り詰めます。しかしそのまま、そこで終らずに、もうひとつ登ってみよ、というのです。もとよりその時竿はもうありませんから、空中に飛び出してしまうわけです。常識的には落ちてしまいます。それでも敢えて登れというのです。
我々の日常生活は何かにしがみついてその上に成立しています。それから離れられないようになっている、それに頼り切って、そのことによって安心感を得ています。それを敢えて捨ててみよ。しかしそこには、頼るもののない不安定な世界しかない。何が起こるか分っていない、それでもやれ、そういう意味です。
人生において、ある時は、先行きは分からないけれど、思い切って外に踏み出し、何かに賭けてみる、また、敢えて不安定のなかに遊泳してみる、それもいいではありませんか。そのことによって前のことはご破算になって、新しい世界がひらけてくるかも知れません。勿論、失敗つまり墜落するかも知れません。それでも敢えてやる、さあどうする、ということです。
「香厳(きょうげん)、樹に登る」というのもあります。むかし香厳和尚は大きな樹に登り、高い枝の上に立ち、自分が乗っている枝の根本を鋸で挽き出した、さてどうなるかというのです。あるいは敢えて自分の頼っている枝を切ってしまえというのです。これも同様です。