これも禅の言葉ですが、よく知られたものです。むやみと突っ走るだけでなく、ときに自分の足元、自分の置かれた基盤を反省してみなさい、自己のよって立つところを承知していることが何にも増して重要である、そんな意味です。
それはそれでいいのですが、実は、あまり一般にはそこまで言われませんが、このあとに、「元来自下(じか)の脚下は虚(きょ)にして力なし」という句が続きます。そこが面白いのです。足元を見よ、というだけではなくて、実は君達の足元は虚にして力なしなのだよ、というのです。そうであるのにそのことに気づいていない。そのことに気づけというのです。
例えば、我々は、脚下照顧(きゃっか しょうこ)せよといわれて、自らの足元、自己の基盤を反省してみます。そのとき基盤のほうはしっかりしたものなのに、自己のほうがふらふらしていたとすれば、いけないのは自己のほうで、磐石の地盤に自己がきっちり乗っていない、そこを反省するのが脚下照顧である、そうとります。しかし後半部分を併せて解釈すると、基盤はあっても磐石ではない、虚にして力なしなのだ、そういった、頼りない基盤の上に実は我々の生活は成り立っているのだ、そうなります。基盤を磐石とするか、虚にして力なしとするかで、我々の生活のあり方はずいぶん違ったものにならざるを得ません。
阪神大震災というのがありました。地震以前には、地面が割れたり、屋根が落ちるということはありえないことだと思っていました。その前提のもとに、大切なものも家にしまっておき、夜も安心してそこに寝ていたのでした。ところが自らの脚下は虚であり、力なしの状態であることが証明されたのです。それでもまだ、それは例外的にそうであったのだ、本来は、あるいは多くの場合はそうした我々に都合の悪いことは起こらないはずだ、とするかも知れません。しかし、統計的にいって、我々にとって都合の悪いことが起こるのが世の当り前の姿で、もし都合の悪いことが起こらずに一生安定して生活できていたとすれば、そちらのほうが例外であるかも知れません。脚下照顧とはそういうことへの反省なのです。