時雨《しぐ》れて夕方になった。冷雨であった。アパートの階段の上り口に菊の大輪が二鉢並べてある。暮れなずんだ廊下に花の黄だけが浮いている。上り口の夫婦者か、下の管理人あたりが作ったものかもしれない。それにしてもアパートに大輪の菊はそぐわなかった。
氷見子は白のレインコートを着て外へ出た。十二月の五時はすでに夜の匂いがした。公演は今日が初日だった。
小さな劇場は雨を含んだ客で満ちていた。廊下を歩き、客席に坐りながら素早く眼を配った。二、三度行き来するだけで客席はすべて見通せた。
やはり伸吾はいた。客席の中程で長い脚を重ねて隣りの男と話している。見届けてから氷見子は後ろの自分の席へ戻った。
舞台は熱を帯びていた。だが氷見子はほとんど見ていなかった。見ていたのは五つ前の伸吾の顔であった。
終演間近に氷見子は立ち上り、手洗の鏡に向かった。透けるように蒼ざめた顔だ。白さは体の虫が血を食べているせいかもしれなかった。軽く白粉を叩き、口紅を薄く塗る。舌で舐《な》めて唇はようやく生気づいた。
(伸吾と寝るのだ)
氷見子は鏡の中のもう一人の自分に確かめた。
すべては氷見子の思いどおりであった。伸吾の中にはまだ氷見子への余韻が残っていた。それは男の果てることのない好き心のせいかもしれなかった。しかし氷見子はどちらでもよかった。
「本当は君と一緒になりたかったのだ」
終えてから伸吾は氷見子の髪に手をやりながら云った。
「あのままなら一緒になれたのだ」
「いいのよ」
氷見子は子供をあやすように伸吾の背を撫でた。悔いはなかった。氷見子のすべてが伸吾に移ることは分っていた。しなやかな伸吾の体を通してそれが幼い新妻に達し、子へ繋がっていく。血が生きているかぎりそれは続く筈だった。私は黒い虫になって伸吾の中に入った。伸吾が生きているかぎり私は忘れ去られることはない。それを思うだけで氷見子の心は満ちた。
「この部屋にはいつからいるの」
夜の明るさの中で伸吾は部屋を見廻した。
「泊っていったら」
「でも今日は突然だから」
それ以上強いる気持は氷見子にはなかった。
「こんなことになるとは思わなかった」
伸吾は頭に手を当て、窓の端を見ていた。
「後悔してる?」
「いや、それよりまた逢ってくれる」
「いいわ、貴方が欲しい時はいつでも」
伸吾はもう一度接吻をしてから服を着始めた。氷見子は床の中から帰り支度をする男を見ていた。
「また来る」
伸吾は軽く頭を下げて部屋を出ていった。足音が階段の半ばで跡切れて消えた。去っていくと思いながら氷見子の気持は安らぎ、満たされていた。