破戒――何といふ悲しい、壮(いさま)しい思想(かんがへ)だらう。斯(か)う思ひ乍ら、丑松は蓮華寺の山門を出た。とある町の角のところまで歩いて行くと、向ふの方から巡査に引かれて来る四五人の男に出逢(であ)つた。いづれも腰繩を附けられ、蒼(あを)ざめた顔付して、人目を憚(はゞか)り乍ら悄々(しを/\)と通る。中に一人、黒の紋付羽織、白足袋穿(ばき)、顔こそ隠して見せないが、当世風の紳士姿は直に高柳利三郎と知れた。克(よ)く見ると、一緒に引かれて行く怪しげな風体の人々は、高柳の為に使役(つか)はれた壮士らしい。流石に心は後へ残るといふ風で、時々立留つては振返つて見る度に、巡査から注意をうけるやうな手合もあつた。『あゝ、捕つて行くナ。』と丑松の傍に立つて眺めた一人が言つた。『自業自得さ。』とまた他の一人が言つた。見る/\高柳の一行は巡査の言ふなりに町の角を折れて、軈(やが)て雪山の影に隠れて了つた。
男女の少年は今、小学校を指して急ぐのであつた。近在から通ふ児童(こども)なぞは、絨(フランネル)の布片(きれ)で頭を包んだり、肩掛を冠つたりして、声を揚げ乍ら雪の中を飛んで行く。町の児童(こども)は又、思ひ/\に誘ひ合せて、後になり前になり群を成して行つた。斯(か)うして邪気(あどけ)ない生徒等と一緒に、通(かよ)ひ忸(な)れた道路を歩くといふのも、最早今日限りであるかと考へると、目に触れるものは総(すべ)て丑松の心に哀(かな)し可懐(なつか)しい感想(かんじ)を起させる。平素(ふだん)は煩(うるさ)いと思ふやうな女の児の喋舌(おしやべり)まで、其朝にかぎつては、可懐しかつた。色の褪(さ)めた海老茶袴(えびちやばかま)を眺めてすら、直に名残惜しさが湧上つたのである。
学校の運動場には雪が山のやうに積上げてあつた。木馬や鉄棒(かなぼう)は深く埋没(うづも)れて了(しま)つて、屋外(そと)の運動も自由には出来かねるところからして、生徒はたゞ学校の内部(なか)で遊んだ。玄関も、廊下も、広い体操場も、楽しさうな叫び声で満ち溢(あふ)れて居た。授業の始まる迄(まで)、丑松は最後の監督を為る積りで、あちこち/\と廻つて歩くと、彼処(あそこ)でも瀬川先生、此処(こゝ)でも瀬川先生――まあ、生徒の附纏(つきまと)ふのは可愛らしいもので、飛んだり跳(は)ねたりする騒がしさも名残と思へば寧(いつ)そいぢらしかつた。廊下のところに立つた二三の女教師、互にじろ/\是方(こちら)を見て、目と目で話したり、くす/\笑つたりして居たが、別に丑松は気にも留めないのであつた。其朝は三年生の仙太も早く出て来て体操場の隅に悄然(しよんぼり)として居る。他の生徒を羨ましさうに眺め佇立(たゝず)んで居るのを見ると、不相変(あひかはらず)誰も相手にするものは無いらしい。丑松は仙太を背後(うしろ)から抱〆(だきしめ)て、誰が見ようと笑はうと其様(そん)なことに頓着なく、自然(おのづ)と外部(そと)に表れる深い哀憐(あはれみ)の情緒(こゝろ)を寄せたのである。この不幸な少年も矢張自分と同じ星の下に生れたことを思ひ浮べた。いつぞやこの少年と一緒に庭球(テニス)の遊戯(あそび)をして敗けたことを思ひ浮べた。丁度それは天長節の午後、敬之進を送る茶話会の後であつたことなどを思ひ浮べた、不図、廊下の向ふの方で、尋常一年あたりの女の生徒であらう、揃つて歌ふ無邪気な声が起つた。
『桃から生れた桃太郎、
気はやさしくて、力もち――』
その唱歌を聞くと同時に、思はず涙は丑松の顔を流れた。
大鈴の音が響き渡つたのは間も無くであつた。生徒は互ひに上草履鳴して、我勝(われがち)に体操場へと塵埃(ほこり)の中を急ぐ。軈(やが)て男女の教師は受持受持の組を集めた。相図の笛(ふえ)も鳴つた。次第に順を追つて、教師も生徒も動き始めたのである。高等四年の生徒は丑松の後に随(つ)いて、足拍子そろへて、一緒に長い廊下を通つた。