頭巾をとった佐清の顔――金田一耕助は「犬神佐兵衛伝」に挿入された写真で、その顔
にも見覚えがあった。しかし、おお、その顔! それはなんという奇妙な顔であったろう
か。顔全体の表情が、凍りついたように動かない。不吉なたとえだが、その顔は死んでい
た。生気というものがまったくなかった。全然血の気の通わぬ顔だった。
きゃっ!……と、小夜子が叫んだ。と、同時に一座にはげしい動揺が起こった。そのざ
わめきのなかを、怒りにみちた松子のヒステリックな声が甲走った。
「佐清は顔にひどいけがをしたのです。それでああいう仮面をつくってかぶらせてあるの
です、わたしたちの東京滞在が長びいたのはそのためです。わたしは昔の佐清の顔とそっ
くりな仮面を東京で作らせたのです。佐清、その仮面を半分めくってみせておやり」
佐清の震える指があごへかかった。するとどうだろう。まるで顔の皮をひんむくように、
ペロリとあごから仮面がまくれあがっていくではないか。
きゃっ!……また、小夜子が悲鳴をあげた。
金田一耕助も、あまりの無気味さに膝頭がガクガク震えてやまなかった。鉛でものみこ
んだように腹の底がズーンと重くなった。
精巧なゴム製の仮面の下からは、仮面とそっくりなあごからくちびるが現われた。そこ
には別に異常はなかった。しかし、仮面が鼻のあたりまでめくられたとき、小夜子が、三
度きゃっと悲鳴をあげた。
そこには鼻がなかったのである。鼻のかわりになにやらドロドロとした赤黒い肉塊が、|
膿《う》みくずれたようにはじけているのである。
「佐清! もうよい! もう仮面をおおろし」
佐清がもとどおり仮面をおろしたとき、だれしもそれでよかったと思わずにはいられな
かった。あのいやらしい、ドロドロとした肉塊を、もっと上まで見せつけられたら、だれ
しも当分飯がのどを通らなかったであろう。
「さあ古館さん。これで疑いは晴れましたか。これは佐清にちがいありません。顔こそ少
し変わっていますが、母のわたしが保証するのです。これはわたしの息子の佐清です。さ
あ、早く遺言状を読んでください」
古館弁護士は気をのまれて、茫然と眼を見はっていたが、松子の最後の一言に、ハッと
われにかえって一座を見渡した。だれももう、それに抗議を申し込むものはない。
はげしいショックに、竹子も梅子も、その夫たちも度を失って、日ごろの底意地の悪さ
を忘れてしまったのである。
「では……」
古館弁護士は震える指で、あの貴重な封筒を切った。
それから、低いながらもよくとおる声で、遺言状を読みはじめた。
「ひとつ……犬神家の全財産、ならびに全事業の相続権を意味する、犬神家の三種の家
宝、|斧《よき》、琴、菊はつぎの条件のもとに野々宮珠世に譲られるものとす」
珠世の美しい顔がさっと青ざめた。ほかのひとびとの顔色も、珠世に劣らず青ざめた。
憎しみにみちたかれらの視線が、|火《ひ》|箭《や》のように烈々と、珠世のうえに注
がれる。
古館弁護士はしかしそれには委細かまわず、次の条項を読みつづける。
「ひとつ……ただし野々宮珠世はその配偶者を、犬神佐兵衛の三人の孫、佐清、佐武、佐
智の中より選ばざるべからず。その選択は野々宮珠世の自由なるも、もし、珠世にして三
人のうちの|何《なん》|人《ぴと》とも結婚することを|肯《がえん》ぜず、他に配偶
者を選ぶ場合は、珠世は斧、琴、菊の相続権を喪失するものとす。……」
すなわち、犬神家の全財産ならびに全事業は、佐清、佐武、佐智の三人のうち、珠世の
愛をかちえたものの手に落ちることになるのである。
金田一耕助はなんともいえぬ異様な興奮に、全身の戦慄を禁じえなかったが、しかもそ
こにはまだ奇妙な条項がつづいているのであった。
血を吹く遺言状
古館弁護士は震える声で、遺言状を読みつづける。
「ひとつ。……野々宮珠世はこの遺言状が公表されたる日より数えて、三か月以内に、佐
清、佐武、佐智の三人のうちより、配偶者を選ばざるべからず。もし、その際、珠世の選
びし相手にして、その結婚を拒否する場合には、そのものは犬神家の相続に関する、あら
ゆる権利を放棄せしものと認む。したがって、三人が三人とも、珠世との結婚を希望せざ
る場合、あるいは三人が三人とも、死亡せる場合においては、珠世は第二項の義務より解
放され、何人と結婚するも自由とす」
一座の空気はいよいよきびしく緊迫してくる。珠世はすっかり色を失って、ふかく頭を
たれているが、いかに彼女が興奮しているかということは、わなわな震える肩でもあきら
かである。彼女に注がれる犬神家の一族の、憎しみにみちたまなざしは、いよいよ露骨に、
毒々しさを加えていく。もし、視線がひとを殺すものなら、珠世はその瞬間において|悶
《もん》|死《し》していたことだろう。
そういう緊迫した、殺気のみちた空気のなかに、古館弁護士の震えをおびた、よくとお
る声が、|呪《じゅ》|文《もん》のようにつづくのである。まるで地獄の底から、|復
讐《ふくしゅう》の悪鬼でも呼び出すように。……
「ひとつ。……もし、野々宮珠世にして、|斧《よき》、琴、菊の相続権を失うか、あるい
はまたこの遺言状公表以前、もしくは、この遺言状が公表されてより、三か月以内に死亡
せる場合には、犬神家の全事業は、佐清によって相続され、佐武、佐智のふたりは、現在
かれらの父があるポストによって、佐清の事業経営を補佐するものとす。しかして、犬神
家の全財産は、犬神奉公会によって、公平に五等分され、その五分の一ずつを、佐清、佐
武、佐智にあたえ、残りの五分の二を|青《あお》|沼《ぬま》|菊《きく》|乃《の》
の一子青沼|静《しず》|馬《ま》にあたえるものとす。ただし、その際分与をうけたる
ものは、各自の分与額の二十パーセントずつを、犬神奉公会に寄付せざるべからず」
青沼菊乃の一子、青沼静馬という耳新しい名前がとび出したときには、金田一耕助も驚
いて、おやと眉をひそめたが、一座の驚きはそれどころではなかった。犬神家の一族にと
ってその名はあたかも、爆弾も同様の効果をもっているらしい。古館弁護士のくちびるか
らひとたびその名がとび出した瞬間、犬神家のひとびとはことごとく、|愕《がく》|然
《ぜん》として色を失ったが、わけても、松子、竹子、梅子三人の驚きは大きく、かつ深
刻だった。文字どおり彼女たちは、うしろへひっくりかえりそうなほどの、はげしいショ
ックを感じたらしかったが、やがてたがいに顔を見合わせるとその眼のなかには一様に、
烈々たる憎悪の炎がもえあがってきた。それは最初の一項が、はじめて古館弁護士のくち
びるからもれたとき、すなわち、犬神家の全財産、ならびに全事業が、野々宮珠世に譲ら
れるときいたときにも、まさるとも劣らぬほどの、深刻な憎しみの色だった。
ああ、青沼静馬とは何者なのか。金田一耕助は、くりかえしくりかえし「犬神佐兵衛伝」
を精読したが、そのような名前には一度もぶつからなかったのである。
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