青沼菊乃の一子静馬――かれはいったい佐兵衛翁と、どのような縁があって、かくも|
莫《ばく》|大《だい》な恩恵にあずかることができるのであろうか。そしてまた、松子、
竹子、梅子の三人はいったいどうしてこの名前に対して、あのようにはげしい憎悪の色を
示すのであろうか。それは単に、自分たちの息子の分け前を、横取りするものに対する、
憎悪の念であったであろうか。
否! 否!
そこにはもっと深い、根強い理由がありそうに思えるではないか。
金田一耕助は深い興味と好奇心のまじった眼で、犬神家のひとびとの顔色を読んでいた
が、そのとき古館弁護士が軽いしわぶきをして、また、遺言状を読みはじめた。
「ひとつ。……犬神奉公会は、この遺言状が公表されてより、三か月以内に全力をあげて、
青沼静馬の行方の捜索発見せざるべからず。しかして、その期間内にその消息がつかみえ
ざる場合か、あるいはかれの死亡が確認された場合には、かれの受くべき全額を犬神奉公
会に寄付するものとす。ただし、青沼静馬が、内地において発見されざる場合においても、
かれが外地のいずれかにおいて、生存せる可能性ある場合には、この遺言状の公表された
る日より数えて向こう三か年は、その額を犬神奉公会において保管し、その期間内に静馬
が帰還せる際は、かれの受くべき分をかれに与え、帰還せざる場合においては、それを犬
神奉公会におさむることとす」
一座はシーンとしずまりかえっている。それはなんともいえぬほど、恐ろしい静けさで
あった。氷のように冷えきったその静けさのなかに、なにやらえたいの知れぬ邪気と|妖
《よう》|気《き》のみなぎりわたるのを感じて、金田一耕助は、背筋の寒くなるのを覚
えずにはいられなかった。
古館弁護士は、ひと息いれたのち、また遺言状を読みはじめる。
「ひとつ。……野々宮珠世が斧琴菊の相続権を失うか、あるいはこの遺言状の公表以前、
もしくは公表されてより三か月以内に死亡せる場合において、佐清、佐武、佐智の三人の
うちに不幸ある場合はつぎのごとくなす。その一、佐清の死亡せる場合。犬神家の全事業
は協同者としての佐武、佐智に譲らる。佐武、佐智は同等の権力をもち、一致協力して犬
神家の事業を守り育てざるべからず。ただし、佐清の受くべき遺産の分与額は、青沼静馬
にいくものとする。その二、佐武、佐智のうち一人死亡せる場合。その分与額同じく青沼
静馬にいくものとす。以下、すべてそれに準じ、三人のうち何人が死亡せる場合において
も、その分与額は必ず青沼静馬にいくものとなし、それらの額のすべては、静馬の生存如
何により前項のごとく処理す。しかして佐清、佐武、佐智の三人とも死亡せる場合に於て
は、犬神家の全事業、全財産はすべて青沼静馬の享受することとなり、斧、琴、菊の三種
の家宝は、かれにおくられるものとなす」
犬神佐兵衛翁の遺言状は、実際はもっと長いのである。そこには野々宮珠世をはじめと
して、遺言状中の名前をあげられている、佐清、佐武、佐智の三人のいとこ、ならびに青
沼静馬なる人物と、この五人の人間の生と死との組み合わせが、あらゆる場合の可能性を
追究していく、一種のパズルのようなものであった。
しかし、それはあまりに微に入り、細をうがちすぎ、これ以上は枝葉にわたるきらいが
あるので、ここでは省略することにするが、さて、いままで読みあげられたところを通読
して、だれでもが、すぐに感じずにはいられぬことは、野々宮珠世の絶対ともいうべき有
利な立場である。
野々宮珠世がいまから三か月以内に、死亡するなどとは絶対に考えられない。と、すれ
ば犬神家の全事業全財産のまことの相続者は、彼女の決意ひとつできまるわけである。す
なわち、佐清、佐武、佐智の運命は、彼女の|一顰一笑《いっぴんいっしょう》によって
左右されるのだ。
それにつづいて、だれでも奇異な想いをいだかずにはいられぬことは、青沼静馬なる人
物のことである。この遺言状を子細に吟味してみるならば、青沼静馬なる人物こそ、野々
宮珠世についで、有利な立場をしめていることに気づかずにはいられないだろう。
佐清、佐武、佐智の三人が、野々宮珠世の意志に左右されることなしに、祖父の遺産の
わけまえにあずかれるのは、珠世が権利を放棄するか、あるいは、珠世が死亡した場合に
かぎっているが、その場合における青沼静馬なる人物の、有利な立場はどうだろう。
なるほど、かれは犬神家の事業には参画できない。しかし全財産のわけまえにおいては、
他の三人に倍するのである。しかも、青沼静馬が死んだところで、佐清ら三人は、なんの
恩典にもあずかれないが、その反対に佐清ら三人のうち、だれが死亡しても、そのわけま
えは、青沼静馬のふところに、ころげこむことになっているのである。もし、それ、野々
宮珠世をはじめとして、三人のいとこたちのすべてが死んだ暁には、犬神家の全事業なら
びに全財産は、ことごとく、青沼静馬なる、不可解な人物の、手中に帰することになって
いるのである。
すなわち、この遺言状によると、犬神家の全事業ならびに全財産は、最初において、野
々宮珠世の掌中ににぎられることになっており、最後においては、青沼静馬の肩におちて
くることになっているのである。
しかも、その間、佐清ら三人といえども、自分ひとりで、犬神家の全事業全財産を独占
しうるチャンスはどこにも見いだしえないのである。たとえ、三人のいとこのうち、ひと
りだけ生きのこり、野々宮珠世や青沼静馬もひっくるめて、他の全部、死にたえたとした
ところで、かれは犬神家の全事業、全財産を掌握することはできないのだ。
なぜならば、青沼静馬に行く分は、そのまま犬神奉公会へ寄付させられるのだから。
ああ、なんという奇妙な遺言状!
ああ、なんという|呪《のろ》いと悪意にみちた遺言状であったろうか。なるほど、こ
れでは古館弁護士の、まるで犬神家の一族に、血で血を洗う|葛《かっ》|藤《とう》を
起こさせるのも同然だといった言葉も、うなずけるのである。
いったい、これを書いたとき、犬神佐兵衛翁は正気であったろうか。もし、かれが正気
であったとしたならば、いかなればこそ、現在のおのれの孫にかくもつらく、たとえ恩人
のすえとはいえ、野々宮珠世や、また、青沼静馬なるえたいの知れぬ人物に、かくも温か
なのであろうか。
いやいや、佐兵衛翁の遺言状によって、恵まれることのうすいのは、佐清ら三人のいと
こだけではない。それよりも、もっと冷遇されているのは、三人のいとこの母たちと、そ
の夫たちである。かれらは遺言状のなかで、全然、無視され黙殺されているのではないか。
松子、竹子、梅子の三人は、佐兵衛翁の真実の娘でありながら、ここでは完全にのけも
のにされているのだ。
佐兵衛翁は生前、その娘たちに冷たかったといわれているが、それがこうも極端であっ
たとは。……
金田一耕助は、身内をはしる、一種すさまじい戦慄におののきながら、犬神家の一族の
ひとびとの顔色をうかがっている。
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