だが、松子夫人のこの虚勢も、やがてくずれるときが来た。それは刑事が、佐智の首に
巻きついていた、琴の糸について語ったときである。
「それで、署長さんも不思議に思っているんです。琴の糸で絞め殺したのならともかく、
そうではなくて、ほかのひもで絞め殺しながら、なぜ琴の糸を巻きつけていったのか、ま
るでそれで、絞め殺したかのように……」
松子夫人の琴を弾く手がしだいにくずれる。あきらかに彼女は、刑事の話に心をひかれ
はじめたのである。しかし、それでもまだ弾くことをやめなかった。
「だから、犯人は……」
と、刑事が言葉をついで、
「なにかの理由で特別に、琴の糸というものに注意をあつめたかったのだ……と、そう解
釈するよりほかに仕様がないのです。琴の糸……あるいは琴かもしれません。ところで、
このあいだの佐武さんの事件のときには、菊人形が利用されていましたね。菊人形……す
なわち、菊。そして、こんどは琴です。琴と菊。……|斧《よき》、琴、菊……」
そのとたん、松子夫人の指先が、コロコロシャンとすさまじい音を立てたかと思うと、
プッツリと琴の糸が一本切れた。
「あっ!」
松子夫人と香琴師匠がさけび声をあげたのは、ほとんど同じ瞬間だった。香琴師匠はお
びえたように腰をうかし、松子夫人はいそいで右手にはめている琴爪をはずした。見ると
いま琴糸が切れた拍子にけがをしたのか松子夫人の人差指のうちがわから、たらたらと血
がたれている。
松子夫人は|袂《たもと》からハンケチを出して、いそいでその指に巻きつけた。
「おや、けがをしましたね」
刑事が尋ねた。
「はあ、いま、琴糸が切れた拍子に……?」
香琴師匠は腰をうかしたまま、まだ、はげしい息遣いをしていたが、松子夫人の言葉を
きくと、不思議そうに眉をひそめて、
「いま、琴糸が切れた拍子に……?」
と、ひとりごとのようにつぶやいた。
刑事があの、ただならぬ光を松子夫人の眼の中に見たのは、実にその瞬間だったのであ
る。それはまるで、殺気にもひとしい、はげしい憎しみの色だった。しかし、それも一瞬
のかがやきで、すぐにもとの冷たい色にかえったので、刑事にはいったいどうしてあのよ
うな、はげしい色がうかんだのか、また、憎しみの色がいったいだれに向けられたものな
のか、さっぱり見当がつかなかった。
眼の不自由な香琴師匠は、もとよりそんなことには気がつかず、依然として腰をうかし
たまま、|動《どう》|悸《き》をおさえるような格好をしている。そして、そのそばに
は佐清が、手持ちぶさたらしくひかえている。どういうわけか佐清は、さっき香琴師匠が
あっと叫んで腰をうかしかけたとき、反射的にそばへとんできて、まるで抱きとめるよう
な格好をしたのである。
松子夫人は不思議そうに、そういうふたりを見守っていたが、やがてその眼を吉井刑事
のほうにうつすと、
「それはほんとうのことでございますか。佐智さんの首に糸が巻きついていたというの
は?」
「あの、わたくし、これで失礼いたします」
だしぬけに香琴師匠がそういった。そしてソワソワと立ち上がった。いまの話におびえ
たのか、ひどく顔色がわるくて、足もとが少しふらついているようである。
「ああ、それではぼくが、そこまで送ってあげましょう」
佐清がそれにつづいて立ち上がった。香琴師匠は驚いたように、不自由な眼を見はって、
「あれ、まあ、お坊っちゃま」
「いいんですよ。危ないから、そこまで送らせてください」
やさしく手をとられて、香琴師匠もふりほどくわけにはいかなかった。
「恐れ入ります。それでは奥さま、ごめんくださいませ」
松子夫人は首をかしげて、不思議そうに二人の姿を見送っていたが、やがて刑事のほう
へ向きなおると、
「刑事さん、いまおっしゃったのは、ほんとのことでございますか。佐智さんの首に、琴
の糸が巻きついていたというのは?」
と、もう一度同じことを尋ねた。
「ほんとうですとも。それについて奥さん、なにか心当たりがございますか」
松子夫人はだまってしばらく考えていたが、やがてなにかに|憑《つ》かれたような眼
をあげると、
「はあ……あの……ないこともございませんが……あの、妹たちはそれについて、なにか
申していませんでしたか」
「はあ、あちらの奥さまも、なにか心当たりがあるらしいんですが、ハッキリおっしゃっ
てはくださいません」
そこへ香琴師匠を送っていった佐清がかえってきたが、かれはそこへ座ろうともせず、
だまって二人に頭をさげると、そのまま奥の部屋へ入っていった。するとそのときどうい
うわけか、松子夫人が、ゾクリと肩をふるわせたのである。まるでそばを通りすぎる佐清
の体から、冷たい風でも吹いてくるように。
「奥さん、お心当たりがあったらおっしゃってくださいませんか。こういうことは、ハッ
キリさせておいたほうがいいんですが……」
「はあ、あの……」
と、松子夫人はあいかわらず、憑かれたような眼の色であらぬかたをながめながら、
「このことは、私の一存では申し上げかねます。それは、あまり不思議で、信じられない
ことですし、一度、妹たちともよく相談してみたうえで、いずれ、署長さんがお見えにな
ってから。……」
松子夫人はそれから|呼《よ》び|鈴《りん》を鳴らして女中を呼ぶと、古館弁護士に
すぐ来てもらうようにと命じ、それきり、だまって考えこんでしまったのである。
橘署長や金田一耕助が、豊畑村からひきあげてきたのはそれから二時間ほどの後のこと
だった。
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