マグネシウム
滑稽なお茶番、だが考えて見ると、世の中にこれ程恐ろしいお茶番はない。結局、先の品川は大胆不敵な偽物であって、彼奴こそ当の殺人者であることが明かになった。
本物の品川は詳細なる陳述、並に証拠物件の提出によって、(証拠物件というのは、例の幽霊男の写っている夕刊の切抜、青木から品川に宛てた事件に関する手紙、愛之助の書斎で発見した日記帳などであった)警察当局者も、この摩訶不思議を信じない訳には行かなかった。
そこで、青木の日記帳で分った池袋の怪屋を検べたり、麹町の例の淫売宿の主婦を叩いて見たり、出来る限りの捜査を続けたが、幽霊男の方ではそんなことはとっくに予期していた所、どこを探しても、髪の毛一本の手掛りさえなかった。
約一ヶ月の間、幽霊男は不気味な沈黙を守っていた。美人片腕事件で、線香花火の様に、パッと世間を騒がせて置いて、そのまま尻切れとんぼになってしまった。
波越鬼警部と明智小五郎の面前に、突如姿を現わして、不敵の挑戦を試みた程の彼、警察の捜査を恐れて鳴りをひそめたのではない。何かしら非常に大がかりな陰謀を企らんでいる、その準備時代なのではあるまいか。少くともここに一人、科学雑誌社長品川四郎は、それを確信していた。彼はなんでもない人に言葉をかけられた丈けでも、ビクッとして飛上る程、神経過敏になっていた。
果然、品川の予想は的中した。一ヶ月の後、七月半ばのある夜のこと、幽霊男は、実に奇妙な場所で奇妙な仕草をしている所を、発見された。しかも、そんな奇妙な[#「そんな奇妙な」は底本では「そん奇妙な」]仕草をしながら、彼は一体何をしていたのか、どんな犯罪が行われたのか、少しも分らないという、非常に変挺な事件なのだ。
その夜更け、A新聞社会部の記者と写真部員とが、肩を並べて、麹町区の淋しい屋敷町を歩いていた。A新聞では当時「大東京の深夜」という興味記事を連載していて、この二人の記者は今夜少し方面を変えて、富豪街探訪を志したのであった。
彼等が今さしかかった町は、富豪街中の富豪街、片側は何侯爵の森林みたいな大邸宅、片側は見上げる様な高い石垣の上に、ずっと一丁程もコンクリート塀の続いた、千万長者宮崎常右衛門氏邸の豪壮な構えだ。
「この途方もない石垣の下の、溝の中に、菰を被って寝ている乞食婆さんという図はどうだい」
「フフン、こんなとこに乞食がいるもんか。それよりは、この高い塀を乗り越えている泥棒でも想像した方が、よっぽどいい景色だぜ」
彼等がそんな冗談を囁きながら坂を下って行くと、乏しい街燈の光の届かぬ暗闇に、何かしら蠢くものを発見した。鋭敏な新聞記者の神経にハッとある予感が来た。
「シッ、何かいる、隠れるんだ」
両人は石垣を這う様にして、前方をすかし見ながら、ソロソロと進んで行った。
泥棒だ。何とまあ、今その話をしていたばかりじゃないか。
丁度坂の下だから、石垣の一番高い箇所だ。その石垣の上に御丁寧にコンクリート塀が立っているので、全体の高さは二丈もある。その代りには最も光に遠く、彼等の仕事には屈強の場所だ。見ると塀の頂上から一本の縄が下り、それを伝って一人の覆面の男が今降りている所だ。下には二人の洋服姿の見張りの相棒が待構えている。
塀を降りる男は、何かべら棒に大きな荷物を背負っている。
「相手は三人だ。騒いじゃ危いぜ」
「だが、残念だなあ。ここの家へ知らせてやる間はないかしら」
「駄目駄目。門まで一丁もある」
二人の記者は蚊の鳴く様な声で囁き合っていたが、そこは商売柄、機敏に働く頭だ。
「オイ、妙案があるぜ」
と写真部員が相手の肩を叩いた。
それから二三秒の間ボソボソと囁き合っていたが、やがて何を思ったのか、泥棒達の方へと、ジリジリ近づいて行った。十間、五間、三間、もうそれ以上進めば相手に気づかれるというきわどい近さに迫って行った。
覆面の男はやっと地上に降り立って、大きな荷物を下の男の背中に負わせた所だ。
「上首尾だったね」
「ウン、だが、べら棒に重かったぜ」
「そりゃ重いさ。慾と栄養過多でふくれ上っているんだからね」
覆面の男が巧みな手つきで、縄をさばいて、手元にたぐり寄せた。
その時である。ボンと異様な音がして、その真暗な屋敷町が、一瞬間白昼の様に明るくなった。
云うまでもなく、写真部員がマグネシウムを焚いたのだ。何ぜそんな事をしたか。泥棒を驚かせる為か。それもある。だが、彼は同時に、写真器のシャッターをも握ったのだ。つまり犯人の写真を撮ったのだ。
計画は図に当った。いくら何でも、そんな真夜中の往来に写真師が出現しようとは思わぬ。泥棒共はただ、異様な爆音と、目もくらむ火光に仰天してしまった。
中の一人は、用意のピストルを取り出して、暗闇に向って発砲しようとしたが、忽ち他の二人に押し止められた。手向いすれば一層騒ぎが大きくなる。その内には応援の人数もふえる訳だ。此際彼等の採るべき手段は、ただ逃げる事だった。自動車の待っている所まで、息の限り走る事だった。彼等は、荷物を背負った男を中にはさんで、両方から助ける様にして、一目散に駈け出した。
逃げる相手を見ると、写真部員は嬉しがって、彼らの背中から、又一発、ボンとマグネシウムを焚いた。
「追っ駈けようか」
「止せ止せ、ちゃんと現場写真を撮ってしまったのだ。慌てることはない。それよりも、このことをここの家へ知らせてやろうじゃないか」
ということになって、門の方へ引返そうとした時、チラと記者の目を射たものがあった。
「オイ、奴さん達、何だか落して行ったぜ」
「ウン、走って行く奴の身体から、何か落ちた様だね。ハンカチかも知れない」
「そうじゃない。紙切れの様だ。兎も角拾って置こう」
記者は十間ばかり走って行って、賊の落した紙切れを拾って来た。
「何だか書いてある。証拠品になるかも知れない」
二人は一番近くの街燈の下まで戻って、その紙切れの文句を読んで見た。
首相 大河原是之 ……………………………4
内相 水野広忠 ……………………………5
警視総監 赤松紋太郎 ……………………………3
警保局長 糸崎安之助 ……………………………6
岩淵紡績社長 宮崎常右衛門……………………………1
素人探偵 明智小五郎 ……………………………2
(作者申す、右の外十数名の顕官、富豪、最高爵位の人々、元老明智丈けは例外の素寒貧などの名前が列記してあったのだけれど、管々しければ凡て略し、名前の下に番号の打ってある六名丈けを記すに止めた、読者察せよ)
「こりゃ何だ。馬鹿馬鹿しい。高名者番附けじゃないか。つまらないいたずら書きをしたもんだ。元老、内閣諸公を初め、えらい人は洩らさず並べてある。だが、この人選は一寸うまく出来ているね」
「うまい、実にうまい。俺が考えたって、これ以上には選べないね。ピッタリ的にあたっている。それにしても明智小五郎は変だね。先生盗まれる様なものを持っているのだろうか」
「ハハハハ、お笑い草だ。じゃ早くこの家へ知らせてやろうよ」
写真部員が紙切れを捨てようとするのを、もう一人の記者が慌てて止めた。
「待て、その中に宮崎常右衛門の名前があるじゃないか。しかも下に(1)と番号が打ってある。オイ、ここはその宮崎の邸だぜ」
「何だって、それじゃ、この人名は泥棒の日程表か。して見ると、明日の晩は、(2)の番号の打ってある明智小五郎、あさっては(3)の警視総監の所へ這入ろうって訳かね。オイオイ、冗談じゃないぜ」
その紙切れは、二人の新聞記者の想像力を越えていた為に、ただ滑稽なものにしか見えなかった。だが、捨ててしまうのも、何となく惜しい気がしたので、一人がそれをポケットに押込み、やがて、彼等は宮崎邸のいかめしい門前に立戻ると、そこの呼鈴を滅茶滅茶に押し始めた。