赤松警視総監
その翌日の昼前、赤松警視総監は、登庁早々、刑事部長の報告を聞くや、
「この写真に写っている、真中の男が、例の片腕事件の関係者の品川四郎という者に相違ないのかね」
総監は念を押す様に尋ねる。見ると、なる程、三人の内の洋服姿の一人は、
「ハア、品川四郎か或はもう一人の男かです。併し、こんな悪事を働く奴は、無論そのもう一人の男だと思われます」
波越氏はうやうやしく云った。相手は閣下である。月に何度と数える程しか直接口を利いたことのない、えらい人だ。
「ウ※[#小書き片仮名ン、484-3]、例の有名な幽霊男とか云う奴だね」
「そうです。あれ以来まるで消えてしまった様な怪物です」
「して、君はこのもう一人の男も見覚えているということだが」
「ハア、私ばかりじゃありません。高等係のものは誰でも知っています。有名な危険人物です」
「共産党員かね」〔後註、当時は共産党は合法政党ではなかった〕
「それが、党員とハッキリ分らない丈けに、始末が悪いのです。非常にはしっこい奴で、どうしても尻尾を出さないのです。表面では、K無産党に籍を置いて居ります」
「ハハハハ、幽霊男と共産党の握手か。イヤハヤ、奴等もすばらしい武器を手に入れたものだ。ハハハハ」
総監の豪傑笑いを打消す様に、警部はニッコリともせず答える。
「イヤ、実際恐ろしい武器です。私、長年この職に従って居りますが、こんな馬鹿馬鹿しい事件は想像したこともありません。考えれば考える程、頭が混乱するばかりです」
「で、こいつらの逮捕は」
「まだです。無論手配は致しましたが、奴等の巣はとっくに空っぽでした。併し、
「フン、するとやっぱり、何一品盗まれたものはないと云うのだな」
総監は云いながら、チラと卓上の写真に目をやった。そこには、一人の賊が、彼の身体と同じ程の大荷物を背負っている有様が、明瞭に現われていた。
「そうです。私、今朝程、宮崎さん御本人に御逢いして、充分聞訊して来たのですが、宮崎家には
「だが、この荷物の恰好は、どうも品物の様には見えぬが」
「それです。私も無論それに気づきました。この写真ばかりではありません。A新聞の記者は賊共が『そりゃ重いさ、慾と栄養過多でふくれ上っているのだからね』と云っているのを耳にしたのです。その言葉から考えますと、どうしても人間としか考えられません。でその方も入念に検べたのですが、宮崎家の家族や召使でいなくなったものは一人もいないのです」
「その上に、この連名帳か。ワハハハハ、僕もやがて槍玉に上る訳だね」
波越氏は総監の高笑いを聞いて、変な顔をした。総監は一体何と思って、この怪事を笑い飛ばしているのだろう。
「波越君、僕は警察のことにかけちゃ素人だ。だが、時には素人の考えが、君達よりも却って、正しく物を見る場合がないとも限らんよ」
「とおっしゃいますと」
警部はいささか侮辱を感じて聞き返した。
「この事件についてだね。全然別の見方をすることは出来ないかと云うのだ。……分らんかね、例えばだ、その品川という人物と幽霊男とが、全く同一人だと考えたらどうかね」
「エ、しますと、最初から一切が作り話だったという……」
「そう、僕の考えは常識的に過ぎるかも知らんが、そんな寸分違わぬ人間が、この世に二人いようとは思われぬのだ、僕の五十余年の生涯の経験にかけて、そんな馬鹿馬鹿しい話を真に受けることは出来ん」
「併し、併し……」
「君は通俗科学雑誌の編輯者なんてものが、どんな心理状態にあるかを知っているかね。彼等は真面目な学者ではないのだ。謂わば小説家だ、珍奇な好奇的なことを集めて、それを読者に誇示して喜んでいる手合だ。この世間をアッと云わせようという心理、それが
「併し確かな証拠が、現に品川と幽霊男とは二三尺の間近で対面さえしているのです。それも品川自身の申立てばかりでなく、青木愛之助の日記帳に明記してあります」
「その日記帳は僕も見た。見たからこそ幽霊男の存在を信じなくなったとも云えるのだ。というのはあの対面のし方が非常に不自然だ。品川は節穴から覗いた。その時もう一人の男、青木だったね、その青木は同時に節穴を覗くことが出来なんだ」
「でも、……」
「まあ聞き給え。青木は前に一度節穴から品川の姿を覗いている。だから、その晩は、ただそこへ来た男の身体の一部分を見た丈けで、服装が同じな為に、例の第二の品川と信じてしまったのかも知れない。僕は当時日記を読んで、すぐそれに気附いたが、まだ確信に至らなかった。ところが今度の事件だ、番附みたいな連名帳だ。盗難品のない盗難だ。つまり、科学雑誌社長の創り出した奇抜な探偵小説だとは思わんかね。共産党員というのも、君達の神経過敏で、品川に傭われたつまらん男達かも知れん。奴がそんな危険人物として名前を売って居れば、お芝居が一層本当らしくなる訳だからね」
実に驚くべき推理であった。波越警部は、老警視総監のハゲ頭から、こんな恐ろしい推理が飛び出そうとは、夢にも思わなかった。なる程そういう考え方も不可能ではない。総監の推理が如何に適確周到なものであったかは、読者諸君が、もう一度この物語の前段「両人奇怪なる曲馬を隙見する」くだりを読み返してごらんなされば、忽ち
だが、波越警部の頭には、幽霊男に対する信仰が強い根を張っていた。
「すると、あの三浦の屋根裏部屋での対面は、替え玉を使って、品川が青木に幽霊男を信じさせたお芝居だとおっしゃるのですか。又、昨夜の事件も、品川がA新聞の写真部員が来るのを予め知っていてやったとおっしゃるのですか」
「無論僕等には、そんな持って廻った狂言をやって喜ぶ男の心持は分らん。併し、全然見分けのつかぬ程
「併し、活動写真に映った顔は? 夕刊新聞の写真版は?」
「そう、そんなものもあったね、だが、君、新聞社の写真部に懇意な者があれば、写真の群集の中へ一人の男の顔を、手際よくはめ込んで貰う位造作はないことだよ。群集の中に誰がいた所で、新聞価値に影響はないからね。活動写真の方は、なあに、監督の男と申合わせて、嘘の日附を書いた手紙を送って貰ったとすれば、忽ち謎がとける」
波越警部は、総監のこともなげな解釈を聞いて、あっけにとられてしまった。この老政治家は、何という想像力の持主であろう。豪傑政治家の粗雑な頭と軽蔑していたのは、飛んでもない思い違いであった。
「では、では、池袋の空家での婦人惨殺事件は? 青木の行方不明は? 大滝の片腕は?」
警部は最後の抗議を試みた。
「女の生首は人形であったかも知れない。片腕はどっかの病院の解剖死体の腕であったかも知れない。でなければ警察力を尽くして一ヶ月の大捜索に、何の手掛りも得られぬ筈がないじゃないか。少くとも警視庁の立場としては、そう信じた方が有利の様だね。青木夫婦もだ。まだどっかに生きているという考え方だね。ハハハハハハ」
総監は又笑った。波越氏にはこの変な笑い声がどうも気に食わぬ。その
だが、論理の上では
「驚きました。総監が一犯罪事件について、これ程綿密に考えていらっしゃるとは、実に我々長年事に当っている者として、恥入る外ありません」
正直な波越警部は、真から参った様子であった。
「ハハハハ、とうとう降参したな」総監は持前の豪傑に返って、
「エ、何とおっしゃいます」
「明智小五郎さ。ハハハハ、あの男がね、数日
「すると、」警部は更らにどぎもを抜かれて云った。「明智君もそう信じているのですか」
「イヤ、信じてはいない。信ずべき確証は何もないのだ。ただ、そんな風に裏から見ることも出来ると報告してくれた丈けさ」
「それで?」
「それで、明智君自身で、品川四郎の身辺につき
「明智君は、どうして私に話してくれなかったのでしょう」
波越氏はやや
「それは君、怒っちゃいけない。君まで明智式の論理に
つまり、総監が波越氏を呼びつけた用件というのは、この事であったのだ。