白い蝙蝠
偶然の一致であったか、或はそこに深い因果関係が潜んでいたのか、不穏を伝えられていた岩淵紡績会社の労働争議は、マグネシウム事件の翌日午後に至って、遂に
宮崎常右衛門氏の巨万の富は、殆ど岩淵紡績の事業によって築かれたものであった。同氏の優れた経営手腕、及び難き精励刻苦の
総罷業は見事な統制を
宮崎氏が、奇怪なマグネシウム事件を、何かの前兆として非常な恐怖を抱いたのは、誠に無理もないことであった。彼の身辺には私服制服の警察官ばかりでなく、態々
さて、罷業五日目の夕方のことである。
重役会議を終えて帰宅した常右衛門氏は、心配に蒼ざめた家族達の出迎えを受けて、彼の私室に這入って行った。
美しく分けた白髪、身体に比べて大きな赤ら顔、だが連日の心労に、額の皺に痛ましいやつれが見える。
彼は服を着換えることも忘れて、そこの大ソファに、グッタリ身を沈め、小間使の差出す冷い飲物を受けた。
「あなた、御風呂が立って居りますが、のちに遊ばしますか」
夫人も従って来て、気遣わしげに、主人の表情を読む。
「ウン」
常右衛門氏は、生返事をして、何をか考えている。空ろな目はテーブルの上の一通の手紙に注がれたままだ。
夫人も小間使も、
やがて、常右衛門氏の空ろな目が、ハッと正気に返った様に、鋭い光をたたえる。
「オイ、この手紙は誰が持って来たんだ」
変な型の封筒、見慣れぬ筆蹟、しかもたった一通だけ、テーブルの真中に置いてあるのだ。
「サア、青山じゃございませんかしら」
「青山なら、書斎の方へ持って行く筈だ。それにたった一通というのはおかしい」
宮崎氏は毎配達時間、必ず十数通の手紙を受取る。殊に此頃は手紙の分量が多い。それがたった一通、書斎でもないこの部屋にあるのは変だ。しかも郵便として配達されたものでない証拠には、切手も消印も見えぬのだ。
手紙を取上げて裏を見ると、果して、差出人の名前がない。宮崎氏は何故かひどく躊躇したあとで、結局それを開封した。そして、中身を一目見るか見ないに、サッと額をくもらせ、
「青山は? 青山を呼ぶんだ」
と命じた。
呼ばれた書生の青山は、その手紙については何も知らなかった。青山ばかりではない。夫人も令嬢も召使一同も、今朝掃除を済ませてから、この部屋へ這入ったものは一人もないことが分った。そして、掃除の際に、そんな手紙なぞなかったことは云うまでもない。
宮崎氏がかく
我々の要求は君の娘の生命 と引換えだ。明日正午まで待つ。君の職工達に回答を与えよ。無論無条件に彼等の要求を容 れるのだ。明日正午が一分でもおくれたら、君の娘の命はないものと思え。如何なる防禦も無効だ。兇手は物理的原則を無視して働くのだ。
これを単なるおどしと思ったら、後悔するぞ。例えばこの手紙が、どうして、君の私室に運ばれたか。それを考えた丈けでも、我々の、超物理的手段は、充分、察せられるであろう。
これを単なるおどしと思ったら、後悔するぞ。例えばこの手紙が、どうして、君の私室に運ばれたか。それを考えた丈けでも、我々の、超物理的手段は、充分、察せられるであろう。
宮崎氏はこの種の脅迫状に慣れていた。殊に争議以来は、毎日一通位はこの種の脅迫状が舞込む。で、同氏はこの手紙に対しても、いつもの無関心を装おうと
如何に検べて見ても、その手紙が私室に這入った径路が分らぬ。留守中窓は密閉してあった。廊下から来るには、誰かの部屋の前を通らねばならぬ。第一表門裏門には、多数の見張番がついている。その中をどうして忍込むことが出来たのであろうか。召使共は長年目をかけた、気心の知れたものばかりである。不可能事が易々と行われたのだ。手紙の主が超物理的と誇るのも、
宮崎氏は熟慮の結果、万一の危険に備える為に、こうした奇妙な犯罪にかけては特殊の手腕を有すると聞く、素人探偵明智小五郎の助力を乞うことに心を極めた。大実業家の自負心も、愛嬢の生命には換えられぬのだ。
その夜、我が明智小五郎は、富豪の
つまり宮崎氏は怪賊の挑戦に応じたのである。