不可思議力
裏門の騒ぎというのは、職工風の男が、ジロジロ邸内を覗き込んでいるので、見張りの刑事が
賊はピストルを構えて、グングン邸内へ這入って来る。騒ぎが大きくなった。
そんなことで、結局、賊に縄をかけるのに、二十分程もかかったが、やがて、三人の刑事が賊の縄尻を取って、警視庁へと引上げて行った。
明智小五郎は、それを見送りながら、ふとある恐ろしい疑いに打たれた。
「あいつは、一体何の為に、態々捕まりに来たんだろう。若しかすると……」
彼は大急ぎで元の部屋に引返した。
廊下に一人の書生が見張り番を勤めている。さっき裏門へ駈けつける時、この書生丈けは持場を離れぬ様にと、固く命じて行ったのだ。
明智は、それを見て少し安堵を感じながら、ドアを開いた。そして、一歩室内に這入ったかと思うと、直ぐに又飛び出して来て、張番の書生の肩を掴んだ。
「君、宮崎さんはどこに行かれたのだ」
「洗面所です」
「今か」
「エエ、つい今しがたです。アア、帰って来られました」
廊下の向うに常右衛門氏の姿が見えた。
「その間、この部屋へ誰も這入ったものはあるまいね」
「エエ、決して」
宮崎氏が二人の側まで来て声をかける。
「アア、明智さん、賊は捕まった様ですね」
「エエ、併し……」
「併し?」常右衛門氏はけげん顔だ。
「お嬢さんは大丈夫ですか」
「御安心下さい。雪江の方は別状ありません。ごらんなさい。あの通り元気ですよ」
宮崎氏はドアの方へ歩いて行って、それを開けた。明智もあとに続く。
「オヤ、オヤ、不作法なお嬢さんだぞ」
宮崎氏が笑い顔で云った。雪江は
「明智さん。可哀想に
「居眠りですって。あなたは、あれを居眠りだとおっしゃるのですか」
明智が驚いて聞返した。
「居眠りでなくって、
だが、云っている内に、宮崎氏にも娘の変な様子が分って来た。彼は真青になってツカツカと部屋の中へ這入って行った。
「オイ、雪江、雪江、しっかりしなさい。お父さんだ」
肩を揺っても、グニャグニャと前後に動くばかりで、何の手答えもない。
明智もアームチェーアの側に立って、雪江の様子を眺めていたが、突然常右衛門氏の腕を掴んで、囁き声で云った。
「静かに。何か聞えます。ホラ、あの音は何でしょう」
耳をすますと、ポタ、ポタ、ポタと、雨漏りの様な変な音が断続して聞えて来る。
部屋中を見廻したが、どこにも水の垂れている様子はない。しかも、物音は、つい鼻の先でしているのだ。
「アッ、血だ」
雪江の籐椅子のうしろに廻っていた明智が叫んだ。
見ると、丁度雪江の身体の下の、椅子の底から、真赤な血の
雪江の身体を引起して見ると、案の定、背中の、丁度心臓のうしろに当る箇所に、血まみれの短刀の柄ばかりが見えていた。彼女はその短刀の一突きで絶命したのだ。
「白蝙蝠だ」
短刀の
「不思議だ。わしが洗面所へ行っていた間は二分か三分です。しかも、書生は、誰もこの部屋に這入ったものはないと云っている。どうして、いつのまに。……」
常右衛門氏は、娘の死を悲しむことも忘れて、賊の余りの早業にあきれるばかりだ。
見張りの書生が呼ばれて這入って来た。
「この部屋へ誰も這入らなかったことは確かだろうな」
「ハア、ドアの方に向って廊下に立っていたのですから、見逃す筈はありません。決して間違いはございません」
書生は室内の激情的な光景を見て、真青になって答えた。
「物音も聞かなかったのだね」
明智が尋ねる。
「ハア、ドアが閉ってましたし、二三間向うから見張っていましたので、何も聞きませんでした」
「この部屋は壁もドアも厚く出来ているので、一寸位の物音は外へ漏れないのです」宮崎氏は説明して「お前大急ぎで、医者と警察の人を呼んで来るんだ。それから奥さんには、アア、今でなくてもよろしい。なるべくおそく知らせる方がいい」と命じた。
「あの書生は信用出来る男ですか」
彼が立去るのを見て、明智が尋ねた。
「愚直な程です。同郷人で、
「お嬢さんに何か、つまり、一種の感情を抱いていたという様な……」
「イヤ、そんなことは決してない。あれは婚約の恋人を持っている。その娘は国にいるのですが絶えず手紙の往復をして、非常にむつまじいのです」
「すると、全く不可能なことが、有り得ないことが行われたのです」
「だが、不可能なことが、どうして行われ
「そういう出入口はこのたった一つのドアの
明智は困惑の極、救いを求める様に宮崎氏の顔を眺めた。この変な、名探偵にも似合しからぬ仕草は、已に二度目であった。
「つまり、あなたは、この犯罪は全く解決不可能だと考えられるのですか」
宮崎氏は不満の色を浮べて云った。
「そうです。……併し、若し、そういうお答えでは満足出来ないとおっしゃるならば……」
「エ、すると何か……」
宮崎氏は果し合いでもする様な、恐ろしい目つきで、名探偵の顔を凝視した。
「恐ろしいことです。いや、寧ろ
「それは?」
「それは、つまり……」明智は
「云ってごらんなさい」
「私の留守中、娘さんに近づき得た人物は、天にも地にもたった一人であったと申上げるのです」
「たった一人? それは、つまり、わしのことでしょう」
「そうです。あなたです」
宮崎氏は妙な顔をして、目をしばたたいた。
「すると君は、娘を殺した犯人は、娘の実の父親であるわしだとおっしゃるのか」
「不幸にして、僕はそれを信じることが出来ません。併し、あらゆる事情、あらゆる論理が、その唯一の人を指しています」
「君は、本気で云っているのですか」
「本気です。軽蔑して下さい。僕はこの明々白々な理論を肯定する勇気がないのです。そこには、人間力の及ばない不思議な力がある。この力が何物であるかをつきとめ得ない以上は、僕は無力です」
明智は訳の分らぬことを云って、
「君はどうかしたのじゃありませんか。何を云われるのか少しも分らん」
宮崎氏は、皮肉な微笑を浮べて、この有名な素人探偵の苦境を
「だが、僕は、この不可思議力の本体をつき止めないでは置きません。その上で、あなたの前に頭を下げて今日の無礼を謝するか、それとも、宮崎常右衛門氏に縄をかけて、断頭台に送るか」
常右衛門氏はこの暴言を黙って聞いていたが、明智には答えないで、呼鈴を押して、書生を呼んだ。そして、書生の青山が這入って来たのを見ると、
「この気違いを叩き出すのだ」
と命じた。
「明智先生をですか」
「そうだ。この人は気が狂ったのだ。わしが娘の下手人だなんて、途方もない暴言を吐くのだ。一刻も邸内へ置く訳には行かぬ」
宮崎氏はいとも冷静に云い放った。
「そのお手数には及びません。僕はこれでおいとまします」
明智は一礼してドアの外に出た。彼はただ一人ぼっちになりたかった。そして、極度に混乱した思考力を落ちつけ、この一連の犯罪事件を、もう一度隅から隅まで