幽霊男
あり得べからざる事柄が、易々と行われた。
先夜幽霊男の一味が、宮崎邸から人間程の大きさの荷物を担ぎ出した。しかも、邸内には何一品紛失したものがない。あり得べからざる事だ。
唯一の出入口であるドアの外には、信用出来る書生が張番をしていた。その部屋の中で令嬢雪江が惨殺された。彼女の身辺に近づき得たたった一人の人物は、外ならぬ彼女の実の父親である。父親が娘を殺す。
この二つの不可能事が可能である為には、そこに何かしら途方もない秘密が伏在しなければならぬ。理論をおしつめて行くと、たった一つの結論に達する。その外には絶対に解釈のしようがない。だが、それは想像するさえも身の毛のよだつ程恐ろしいことだ。
明智はとるべき手段に迷った。どこから手をつけていいのか分らなかった。そこで、彼は窮余の一策として、得意の変装術で、洋装の老人に扮し、街頭をさまよい始めたのである。或時は盛り場から盛り場へとさすらい、或時は宮崎邸のまわりをうろつき、又或時は例の池袋の怪屋の附近を歩き廻った。目ざすは品川四郎とそっくりの幽霊男である。この男さえ発見すれば、そして、ひそかに尾行することが出来たならば、怪賊の本拠をつきとめ、そこに隠されている大秘密をあばくことも不可能ではないのだ。
宮崎邸に殺人事件があってから、一週間ばかり、彼はそうして、辛抱づよく歩き廻った。そして、ある日のこと、遂に目ざす幽霊男にめぐり合う幸運を掴むことが出来たのである。
とあるレストランで夕食を
本物の品川四郎かも知れない。そうでないかも知れない。彼はそれを確める為に、レストランの電話室に這入った。客席からは
やがて尾行が始まった。
怪物はレストランを出ると、夜店の並んだ賑かな町を、ブラブラと歩いて行く。食後の散歩であろう。若し捕えようと思えば、町の群集は
幾度も幾度も町を曲って、怪物は果てしもなく歩いて行く。悪人の用心深さで、彼は町角を曲る毎に、尾行者はないかとうしろを振返る。その
それは電車通りで、
「あの車のあとをつけるのだ」
命じながら乗込もうとした明智は、何を思ったのか、咄嗟に思い返して、その車をやり過してしまった。
前の車も
何という素早さ。怪物は道路の向う側で、もう別の自動車を呼止めた。さっきのとは反対の方角に走っている車だ。明智もおくれじと一台の車に飛乗った。幽霊男も今度は籠抜けではない。そこで、自動車の追っかけが始まった訳である。
走りに走っている内に、いつか見覚えのある町を通っていた。初めは何気なく窓外を眺めていた明智も、それが余りに彼の熟知せる道筋と一致しているのに気づいて、「オヤ、これは変だぞ」と思わないではいられなかった。
やがて、先の車は、案の定、その家の前で停車した。その家とは外ならぬ、本当の品川四郎の
幽霊男は車を降りて、格子戸をあけた。婆やが出迎える。彼は婆やに何か口を利いて、事もなく奥へ消えてしまった。
「ナアンだ。さっきから尾行していたのは、それじゃ本当の品川だったのか」
とがっかりしたが、又思い返すと、どうも腑に落ちぬ所がある。品川なれば何ぜ自動車の籠抜けなぞをしたのか。又、さっき電話口へ出たのは一体何者であったのか。とは云え、若し幽霊男だとすれば、まさか、こんな品川の家なぞへ逃げこむ筈はないのだ。流石の明智も、狐につままれた感じである。
兎も角検べて見ようと、案内を乞うと、応接間へ通された。科学雑誌社員時代に親しみのある応接間だ。畳を敷いた日本座敷に椅子テーブルを並べた、洋風まがいの部屋である。品川四郎はそこの
「アア、やっぱりあなたでしたね。お分りでしょう。明智小五郎です。僕は大変な失策をやったのです、あなたを例の幽霊男だと誤解してしまって。……しかし、さっき電話口へ出たのはあなたではなかったのですか」
「ヘエ、電話ですって。それは何かの間違いでしょう。僕に電話はかかった覚えはありませんよ」
そんな話をしている時、実に途方もないことが起った。と云うのは、襖の外に、もう一人品川四郎の声が聞えて来たのである。
「俺は夕方から外出なぞしないじゃないか。今俺が帰って来たなんて、お前は奥の間で俺が調べものをしていたのを知らないのか。その帰って来た俺というのはどこにいるんだ」
叱られているのは婆やだ。だが、何という
明智はさてはとギョッとして、
だが張合のないことには
そこへ、襖の外の声の
「君達は一体全体何者だ」
彼は
「オヤ、これは不思議。貴様、俺の留守宅に忍込んで主人面をしていたんだな。貴様こそ一体何者だ。イヤそれは聞かなくても分っている。貴様だな長い間俺を悩まし続けた怪物は」
今帰宅したばかりの贋の品川が、平然として呶鳴り返した。
分った分った。図々しい幽霊男は、明智の追跡に耐えかねて、咄嗟の思いつきで、本当の品川の家へ逃げ込んだのだ。何という大胆不敵な、併し奇想天外の思いつきであったろう。並べて見ても見分けのつかぬ二人の品川が、お互に相手を贋物だと云い合っているのだ。
その内に、本当の品川が、やっと明智の変装姿を見分けた。
「アア、明智さんじゃありませんか。一体これはどうしたということです。あなたの前にいるのが、例の幽霊男ですよ」
すると、贋の品川も劣らず、まくし立てる。
「オヤ、あなたは明智さんですか。すると、さっきから、私のあとをつけていらっしたのは、僕を幽霊男だと誤解されたのですね。僕こそ正真正銘の品川四郎です。この男は僕の留守を幸いに、僕に化けて何か又悪事を企らんでいたのですよ。サア、こいつを捕えて下さい」
聞いている内に、どちらの云い分が本当だか分らなくなって来る。
「では、君はどうして、籠抜けなぞをして、僕を
「私は近頃臆病になっているのです。それに老人の変装で、あなたということが、ちっとも分らなかったものですから、又白蝙蝠一味のものが、何か悪企みを始めたのかと誤解したのです。本当に僕が幽霊男なら、こんな所へ来る筈がありません。
云われて見ると、一応は
だが、この馬鹿馬鹿しいお芝居は長くは続かなかった。明智はふと一案を思いついて、前から家にいた品川を片隅に引っぱって行き、もう一人の品川に聞えぬ様に、囁き声で、山田の変名で雑誌社に勤めていた頃の
だが、そこにほんの一寸した隙があった。二人が問答に気をとられている