慈善病患者
実業界の
既に現われた一例を上げるならば、偽宮崎氏が殆ど無謀に近い職工達の要求を、無条件に承認したことは、業界一般の一大打撃となり、
又、この事件で打撃を蒙ったのは独り同業者ばかりではなかった。日本の全産業界に、嘗つて前例のない、労働者横暴時代がやって来るのではないかと疑われた。というのは、岩淵紡績争議が終って、まだ一週間もたたぬ間に、全国各地の様々な製造工業に、已に五つの争議が起っていた。彼等は岩淵紡績の実例で味をしめ、増長したのだ。そこへつけ込んで、争議で飯を食っている連中の、
すると、妙なことに、それがどんな地方で起った争議であっても、職工の要求書が提出されると同時に、岩淵紡績の場合と同じ様な脅迫状が、事業首脳者の私宅に、誰が持って来たともなく現われるのだ。令嬢なり、令息なり、令夫人なりの命を頂戴するという例の文句である。
目前、宮崎氏令嬢の実例で、
この勢で、ドシドシ争議が起り、ドシドシ労働者の言分が通って行ったならば、極度の物価
神経過敏な論説記者は、已にそれを
白蝙蝠の紋章は、今やブルジョアの恐怖と憎悪の象徴であった。又、一見有利の立場に見える労働者も、白蝙蝠団の真意を
この社会の
ところが、何と途方もないことには、その怪賊退治の責任者、当の警視庁の最高指揮者は、いつの間にか真赤な偽物に、しかも誰にも見分けることの出来ない、
偽赤松紋太郎氏は、官邸に
偽総監の机上には、決裁すべき重要書類の外に、市民からの非難攻撃の投書が山と積まれた。彼は毎日定刻に登庁して、書類に盲目判を
彼が庁内の事情に馴れて来るに従って、日夜頭を悩ましたのは、部長だとか課長だとか、各署の署長などを、如何なる名目によって更迭すべきか、又如何に更迭せば、最も警察能力を低下せしめ得るかという、重大問題であった。偽総監の陰謀がどんな形を取って現われたか、又その結果、殆ど無警察同然となった帝都に、どの様な戦慄すべき
さて、警視総監の次に、白蝙蝠団の魔手の伸びる所は、彼等のプログラムに従えば、内閣総理大臣大河原是之氏の官邸であった。
大河原伯爵一家は、先年夫人を失ってから、養子の
美禰子さんは容貌は美しく、
例えば、彼女はある時、道端の乞食に、自分の着ていた、仕立卸しの高価なコートを脱いで、着せかけたままサッサと帰って来たことがある。イヤ、もっとひどいのは、婆さんの乞食を、自動車の中へ拾い上げて、邸宅に連れ戻り、当時まだ在世であった母夫人に、この乞食を家で養ってくれとねだったことさえあった。
美禰子さんの並外れた慈悲心は、同族間ばかりでなく、新聞雑誌のゴシップを通して、広く世間一般の話題にも上り、亡き伯爵夫人は、この気違いめいた令嬢の美徳を、たった一つの苦労にしていた程である。
若し、大河原伯爵家に、怪賊白蝙蝠の乗ずべき隙があったとすれば、この令嬢の
で、ある日のこと、伯爵令嬢美禰子さんが、本邸の書斎で、物思いに耽りながら(というのは許嫁の俊一氏が当時関西の方へ旅行をしていたからで)うっとり窓の外を眺めていると、広い庭園の森の様な木立ちの奥から、フラフラと現われて来た、奇妙な人物があった。
一見、令嬢と同じ位の年頃の女であったが、明かに乞食以上のものではないらしく、身に纏っているものといったら、着物というよりはボロ、ボロと云うよりは、糸屑といった方がふさわしい代物であった。足ははだしだし、髪の毛は、さんばらにして、幽霊みたいに顔の前に垂れ下っていた。
普通の娘なら、そんな
美禰子さんは、乞食娘が近づいて来るのをじっと待構えていた。こんな際に使用する最も慈悲深い言葉を頭の中で探しながら。
乞食は、やがて、窓の下にたどりついて、そこに突立ったまま、ジロジロと令嬢を眺め、見かけによらぬ美しい声で云った。
「お嬢さま、なぜお逃げなさらないのです。怖くはないのですか」
アアこの娘は境遇の為にひがんでいるのだ。それであんな皮肉な云い方をするのだ。と令嬢は心の中で考えた。そこで、出来る丈けやさしい声で、先ず、
「お前、どこから這入っておいでなの」
と尋ねて見た。
「門から……、だって、寝る所がなければどんなとこだって構ってはいられませんわ。あたし、
案外上品な言葉を使っている。この娘は生れつきの乞食ではないらしいぞ。と又令嬢は考えた。
「お腹がすいているのでしょう。で、誰か身寄りのものはありませんの。お父さんとかお母さんとか」
「なんにもありません。みなし子です。そして、お腹の方はおっしゃる通りペコペコですわ」
「じゃ、人に知れるといけませんから、この窓から這入っていらっしゃい。今あたしが、何かたべるものを探して来て上げますわ」
「誰も来やしませんか」
「大丈夫、この
これは事実であった。父伯爵は首相官邸にいるのだし、秘書も、
暫くすると、どこから探し出して来たのか、美禰子さんは、ビスケットの
乞食はよっぽど腹が減っていたと見えて、早速ビスケットを五つ六つ一かたまりに頬張ったが、その時、額に垂れ下っていた髪の毛を、うるさそうに掻き上げたので、初めて彼女の顔がハッキリ眺められた。
何という美しい乞食であろう。汚い着物に引きかえて、顔丈けは、汚れてもいなければ、栄養不良の為に
「マア、お前……」
さっき乞食の出現にビクともしなかった令嬢が、思わず立上って、ドアの方へ逃げ出しそうにした程だ。
「アア、嬉しい。お嬢さまにも、やっぱりそう見えるのですわね」乞食娘は、さもさも嬉しそうに叫んだ。「あたし、もう本望だわ。こんな見る影もない乞食の子が、総理大臣で伯爵様のお嬢さまと、そっくりだなんて」
事実、この二人、伯爵令嬢と乞食娘とは、一方は断髪で光った着物、一方はさんばら髪であらめの様なボロ、という点を別にすると、背恰好から顔形まで、双児といってもよい程、そっくりであった。
「あたし、勿体ないことですけれど、もうずっと前からお嬢さまとあたしと、生き写しの様によく似ていらっしゃることを知っていました。若し、あのお嬢さまに御目にかかって、一言でもお話が出来たらと、もうそれが、あたしの一生の望みだったのです。その望みが叶って、あたし、こんな嬉しいことはありゃしませんわ」
乞食は、目に一杯涙を溜めていた。
「マア、世の中に、こんな不思議なことってあるもんでしょうか」
美禰子さんも、それまでよりも、十倍も慈悲深い心持になって嘆息する様に云った。
境遇では天と地程も違った、この二人の娘は、忽ちにして、
美禰子さんが聞くに従って、乞食娘は詳しい身の上話をした。その内容をここに記す必要はないけれど、彼女の身の上は誠に憐むべきものであった。
言葉は上品だし、顔は美しいし、気質もそんなにひねくれてはいない様だ。
美禰子さんは、もう新しいお友達が、一人ふえでもした様に、有頂天になってしまった。
しめっぽい、身の上話がすむと、乞食娘も高貴の令嬢とお友達みたいにしている嬉しさに、段々快活になって来たし、令嬢の方でも気のつまる涙話にあきて、はしゃぎ始めた。
「アア、いいことを思いついたわ。マア、すてきだわ。ネエお前、あたし今、それはそれは面白い遊び方を考え出したのよ」
美禰子さんが、目を輝かせて叫んだ。
「アラ、あなた様と、わたくしとが、何かして遊ぶんですって」
乞食はびっくりして聞き返す。
「エエ、そうよ。あたしね、子供の時分『乞食王子』って云うお伽噺を読んだことがあるのよ。それで思いついたのだわ。あのね……」
と何かボソボソと囁く。
「マア、勿体ない。そんなことが……」
乞食娘は、余りのことにボーッとしてしまって、辞退する言葉も知らぬ体に見えた。
アア、美禰子さんの、並みはずれた慈悲心が、飛んでもない悪戯を考え出してしまった。その結果、あんな大事件が起ろうなどとは、夢にも思わないで。