乞食令嬢
伯爵令嬢が奇抜ないたずらを思いついた。この乞食娘に自分の着物を着せ、自分は乞食のボロを身につけて、「乞食王子」という小説の真似をして見ようと云うのだ。美禰子さんの極端な慈悲心が、この哀れな乞食娘に一時でも伯爵の娘になった夢を見せてやり度いと思ったのだ。
二人は鏡の前で、お互の着物のとり換えっこをした。乞食娘は令嬢が態々持って来てくれた洗面器で汚れた手を洗い、顔にお化粧をした。
「お前、髪を短くしてもいいかえ」
乞食が肯くと、令嬢は髪の形まで自分のと寸分違わぬ断髪に切り縮めてやった。可成り手間取ったけれど、素人細工にしてはうまく出来上った。
今度は令嬢の番だ。彼女は乞食のボロを身につけ、髪をモジャモジャにして鏡を見た。
「アラ、そんな美しい乞食ってございませんわ。お顔にこの眉墨を薄く塗って上げましょうか。そうすれば、もう本物ですわ。誰が見たって華族様の御令嬢だなんて思いませんわ」
乞食は図に乗ってそんなことまで云い出したが、美禰子さんは却って面白がって女学校の仮装会のことなど思出しながら、乞食の云うがままに、顔一面眉墨を塗らせさえした。
二人はすっかり扮装を終って、肩を並べて鏡の前に立った。
「どう見たって、分らないわね。私がお前で、お前が私だって云うことは」
「マア、勿体ない。私はもう死んでも本望でございますわ。一度でも大臣様のお嬢様になれたかと思うと」
「お前、そんなに嬉しいかえ」
令嬢になった乞食よりも、乞食になった美禰子さんの方が却って嬉しそうだ。彼女は暫く鏡を見つめていたが、何を思ったか、クスクス笑い出して、
「お前、もっとおすまししてね、あちらの、書生や小間使なんかのいる部屋をね、見廻って来てごらん。そして、若し少しも疑われないで帰ってお
乞食娘は、まさかそんなことと、尻ごみしていたが、令嬢がドアを開けて突き出す様にするものだから、しぶしぶ廊下へ出て、ひっそりとした邸内を、勝手元の方へ歩いて行った。
廊下を曲ると、向うから書生がやって来るのに出会った。それを見た乞食娘はいきなりキァッと悲鳴を上げて、書生目がけて走って行った。逃げようとしてとまどいしたのかしら。それにしてはどうも様子がおかしい。と見るまに、実に驚くべきことが始まった。
「お前、早く来ておくれ。大変なのよ。私の部屋にね、乞食女が這入って、部屋をかき廻しているのよ。早く、早く、あれを追い出しておくれ」
美禰子さんに扮装した乞食娘が途方もないことを訴えた。
「エ、乞食が? お嬢さまのお部屋に? 飛んでもない奴だ。ここに待っていらっしゃい。すぐに掴み出してやりますから」
書生は何の疑う所もなく、廊下を一飛びに走って、令嬢の部屋へ来て見ると、真黒な顔をした汚い乞食女が、図々しくも令嬢の椅子に腰かけて、悠々とお茶を飲んでいるではないか。
「コラッ、貴様一体何者だ。ここをどこだと思っている。グズグズしていると警察へ引渡すぞ」
書生が恐ろしい見幕で呶鳴っても、ふてぶてしい乞食女は平気なものだ。
「アラ、何を怒っているの。一寸いたずらをして見た丈けなのよ。怒ることはないわ」
書生はあきれ返ってしまった。
「馬鹿。一寸いたずらに人の部屋へ這入ってこられて
彼はいきなり乞食女(その実令嬢美禰子さん)の頸筋を掴んで、えらい力で、窓の外へ
美禰子さんはひどく
結局可哀想な美禰子さんは、何と弁解しても聞き入れられず、書生や門番の手で、荒々しく門外へ放り出されてしまった。
そうなると深窓に育ったお嬢さんには、何の思案も浮ばぬ。ただ腹が立つ。激昂の余り云い度いことも充分には云えない。どうしようどうしようと門前に立ち尽している内に、自然頭に浮んで来るのは、慈悲深き父伯爵のことだ。そうだ。お父さまなら、まさか娘を見違えはなさるまい。父さまにお会いしよう。それがいい。それがいい。と心を極めて遠くもあらぬ首相官邸へと、トボトボ歩き出した。
道行く人が振返って眺めて行く。何となく
二三丁歩いた時分、けたたましい警笛に飛びのいて見送ると、見覚えのある自邸の自動車。誰かしらと怪しむ内に、車は遠く
暫くして美禰子さんの乞食女が官邸門前にたどりついた時には、旨を含められた門番の親父が手ぐすね引いて待ち構えていた。
彼は門を入ろうとする乞食娘を突飛ばして置いて呶鳴った。
「案の定うせおったな[#「うせおったな」はママ]。お前のことは、もうちゃんとこちらへ分っているのだ。一足でも門内に入れるこっちゃないぞ」
突き倒された美禰子さんは、余りのことに立上る力もなく、そのまま地面に顔をつけて、くやし泣きに泣き入ってしまった。
ふと思いついた「乞食王子」のいたずらが、こうまであのお伽噺の筋そのままに進展しようとは、思いもかけぬ所であった。だが、或はこうなるのが当然の運命かも知れぬ。世の中に私とあの娘の様に、まるで瓜二つの人間が存在することを、誰が信じるものか。対決をさせて見た所で、両方が同じことを主張すれば、現に令嬢の地位にいる方が勝利を得るは知れたことだ。それ故にこそ、お話の中の王子さまは、あんなにも御苦労なされたのではないか。と考えると、愈々望みが絶えた様な気がして、美禰子さんはただ泣く外にせん