麻酔剤
さて、お話の速度を少し早めなければならぬ。同じことをいつまで書いていても際限がないからである。
美禰子嬢はそれからどうなったか。白蝙蝠団の陰謀は見事図に当って、彼女は
其翌日、美禰子さんの許婚の俊一氏が大阪のホテルで奇怪な死をとげた。無論これも白蝙蝠団の魔手が伸びたので、彼等は令嬢すり替えを
さて、引続いて起った二つの事件から十日程たって、俊一氏の葬儀も終った頃、大河原首相官邸に突発した奇怪千万な出来事。
ある夕方、非常に長引いた閣議が終って、引上げて行く閣僚達を見送った首相はいつになく疲労を覚えたので、私室に入って、グッタリと椅子に
その上彼には、もう一つ変な心懸りがあった。ついさっき、閣議の始まる前に、野村秘書官が囁いた彼の一身に関するある重大な事柄だ。彼はそれを聞いた時、秘書官が気でも違ったか、或は白昼の夢を見ているのではないかと疑った。何を馬鹿なことを云っているかと叱りつけようとした。だが、野村の態度なり言葉なりが、長年人を見慣れた伯爵には、どうしても出鱈目とは思えなかった。
現実の出来事には嘗つて恐れを抱かぬ大政治家も、この妙な悪夢の様な感情を、如何に処分すべきかに困惑した。馬鹿馬鹿しいと一笑に附し去るはたやすい。併し、野村秘書官がまさか気が違ったのではあるまい。俺はあの男の指図した奇妙なお芝居を演じなければならぬのだろうか。
伯爵が思案に耽っている所へ、丁度彼が今
「お紅茶を持って参りました」
美禰子さんがしとやかに云った。
伯爵は何故かギョッとした様に、
「お前美禰子だね。美禰子に違いないね」
「マア、何をおっしゃってますの、お父さま」
令嬢は鈴の様に笑って見せた。
伯爵は娘の手から紅茶の容器を取って、口へ持って行きながら、
「お前、これをお父さまに飲ませるのだね」
と底力のある声で、念を押す様に云った。
すると今度は美禰子さんが、サッと青ざめて、非常な狼狽の様を示したが、流石に一瞬間で元の冷静を取戻した。
「マア、変なことばっかり。お父さま、今日はよっぽど、お疲れの様ですこと」
伯爵はやっぱり美禰子さんを見つめたまま、唇の隅に薄気味悪い微笑を浮べながら、紅茶茶碗に口をつけた。
厚い唇の前で、紅茶茶碗が段々斜めになり行く。喉仏がゴクリゴクリと上下に動く。またたく内に、伯爵はそれをすっかり飲みほしてしまった。
美禰子さんは、キョロキョロと部屋の中を見廻しながら、何故か落ちつかぬ様子で、伯爵の前の椅子に腰かけていた。顔は真青になり、押えても押えても、小刻みに震えて来るのをどうすることも出来ない体である。
丁度そこへ、野村秘書官が這入って来た。彼は伯爵が既に紅茶を飲みほしたことを知ると、素早く令嬢と妙な目くばせをして、すぐ何気ない
「唯今内務大臣から
差出す一通の書状。伯爵はそれを開封して読み始めたが、二三行を進まぬ内に、彼の額に妙な曇りが現われ、手紙を持つ手が力なく垂れて行った。
「どうかなさいましたか、閣下、御気分が悪いのですか」
「お父さま。お父さま」
秘書官と令嬢とが同時に駈け寄って、伯爵の
秘書官はそれを見ると入口に走って、邸内の人々を呼ぶのかと思うと、そうではなく、却って内部からドアに鍵をかけてしまった。
伯爵はいつの間にか椅子を辷り落ちて、床の上に横わっていた。
「うまく行ったわねえ」
令嬢美禰子さんが、お芝居の毒婦の様な言葉を使った。
「君の腕前には感心しましたよ。四人目がかたづいたと云うものです」
野村秘書官が云った。四人目とは白蝙蝠団の人名表の第四番目を意味するのだ。
ああ、何という奇怪千万な事実であろう。賊は内閣総理大臣を
「サア、手を貸して下さい」
偽秘書官が偽令嬢をうながして、たわいなく眠りこけた伯爵の身体を一隅の押入れの前まで引張って行った。秘書官が鍵でその戸を開く。伯爵の身体がその中へ押し込まれる。
「あとは僕一人で大丈夫。あなたは窓の外を見張っていて下さい」
彼はそう云い捨てて、真暗な押入れの中へ、姿を消した。そこには
「マア、お父さま」
美禰子さんが、驚歎の叫びを発して、その人物に近づいて行った。
「ウン、美禰子か」
偽伯爵は、登場早々もうお芝居を始めた。
「で、閣下、唯今の内務大臣への御返事は如何致しましょうか」
偽秘書官がしかつめらしく云った。偽物
「そうだな。手紙の返事はよろしいが、一つ警視総監に電話をかけてくれ給え、もう退庁していたら官邸へかけるのだ。そして、総監が心酔している民間探偵の明智小五郎を同道して、すぐここへ来る様に。ア、待ち給え。一寸重大な事件が起ったので、腕利きの部下を五六名同道する様に云ってくれ給え。相手は中々手強い奴だと云ってね」
首相自ら斯くの如き異様な命令を発するとは、嘗つて前例のないことだ。併し、どうせ相手は偽総監、偽素人探偵だ。同類からの電話なら飛んで来るに極っている。
だが、伯爵は何の為に総監や明智を呼ぶのであろう。二人丈けならまだ分っているが、屈強の警官数名を伴ってこいというのは、どうも変だ。一体全体ここで何を始める積りであろう。令嬢美禰子さんは不思議に思わないではいられなかった。そんな事は予定の筋書になかったからだ。
併し、野村秘書官は、何の不審をも抱かぬ体で、ドアをあけて、電話室へ立去ったが、間もなく引返して来て、
「総監はすぐお出でになります」と報告した。