悪魔の製造工場
「僕は明智小五郎だよ」
野村秘書官は、そう云いながら巧妙な
「どうだね。君達の工場の人間改造術と僕の変装術と、どちらが便利だね。ハハハハハ」
驚くべし。そう云って笑ったのは、まぎれもない名探偵明智小五郎だ。額の皺から、唇の曲線から、目の大きさから、声の調子に至るまで、一瞬間までそこにいた野村秘書官の面影は、どこを探しても発見することは出来なかった。
「僕は君達の巣窟にとらわれていた。だから君達白蝙蝠の陰謀は何から何まで知っているのだ。青木芳江が大河原令嬢になりすまして、伯爵に麻酔剤を飲ませることも分っていたので、あの女の持っている麻酔剤を、無害の粉薬とすり替えて置いて、伯爵に御願いして、態と寝入った振りをして頂いたのだ。そして、伯爵の身体を押入れの箱の中の偽物と入れ替えると見せかけて、暗闇を
一座の人々は、名探偵のこの劇的出現に、アッと驚きの声を上げた。
赤松氏は、思わず横にいた偽の明智小五郎を見た。寸分違った所はない。明智小五郎と明智小五郎が相対して睨み合っているのだ。だが、誰よりもびっくりしたのは、偽の明智になりすました青木愛之助であった。彼が若し、真からの悪党であったなら、本物の明智に対して、貴様こそ偽物だと云い張ったであろうが、そうすれば、この全く瓜二つの両人の真偽判別は一寸不可能であったかも知れないのだが、読者も御承知の通り、青木という男はただ極端な猟奇者という丈けで、根はごく小心者だったから、そこまで我慢がし切れず、第一番にその部屋を逃げ出そうとしたのである。
青木が逃げ腰になると、悪党の斧村錠一も一人
「何をボンヤリしているのだ。諸君、そいつを捕えるのだ」
明智が叫んだけれど、余りの驚きに、夢に夢見る心持で、警官達は賊を追おうともしない。止めだてするものがないのを幸、二人の賊は、忽ち入口に達して、サッとドアを開き、いきなり廊下へ飛び出そうとした。だが、飛び出そうとした両人は何を見たのかギョッとそこへ棒立ちになってしまった。
「総監閣下どうも止むをえません。無礼の段はお許し下さい」
廊下から太い声が皮肉な調子で聞えた。見ると、ドアのすぐ外に立ちはだかった御馴染の波越鬼警部。その手にはピストルの筒口が気味悪く光っている。抜目のない明智小五郎は、万一の用意にソッとこの親友を呼び寄せて置いたのだ。
かくして白蝙蝠の一味、斧村、青木、竹田(例の箱の中に潜んでいた大河原伯の偽物)の三人は、何の造作もなく逮捕せられ、五名の警官がその縄尻を取って別間に引下がった。
「あり得べからざることです。この恐ろしさは個人的な恐怖ではありません。人類の恐怖です。世界の恐怖です」
明智が語り続けるのを、伯爵がさえぎって云った。
「信じ得ない。それは神の許さぬことだ。奴等も君と同じ様な一種の変装術を用いているのではないか」
「決して。彼等は真から容貌が変っているのです。例えば青木夫妻の如き人間が、どうして私の変装術を真似ることが出来ましょう。私は少くも十年間の絶え間なき研究と練習を積んで、やっと随意に顔の皺まで変える術を会得したのです。素人の彼等に出来ることではないのです。彼等のは私の様に変通自在ではありません。決定的のものです。一度容貌を変えたなら、そのまま永久に続くのです」
「夢だ。私も君も夢を見ているのだ」
「イヤ、夢ではありません。私は彼等の製造過程をある程度まで説明することが出来ます。それよりも一度彼等の工場を御目にかけ度いと存じます。この様な
「行って見よう。波越君」明智は警部と一緒に部屋を飛出した。見ると廊下を走って来る書生の姿。
「大変です。お嬢さまのお部屋で」皆まで聞かず、書生の案内で令嬢の部屋へ駈けつけた。甲高い罵り声、ドタンバタンと何かがぶつかる物音。ただ事でない。
明智がいきなりドアを開いた。見ると部屋の真中に、小犬の様にもつれ合う二つの肉団。一人は伯爵令嬢の美禰子さん。一人は見も知らぬ女乞食だ。しかも不思議なことに、悲鳴を上げているのは、令嬢ではなくて、不気味な女乞食の方である。
それを見た波越鬼警部は、いきなり飛込んで行って、乞食娘の横面をガンとくらわせた。か弱い乞食娘は一たまりもなく、ぶっ倒れる。
「引括ってしまえ」警部が部下の巡査に命令した。
「待ち給え、波越君。乱暴なことをしちゃいけない。君が今なぐったのは誰だと思う。伯爵の令嬢だぜ」
明智が注意しても、警部にはまだ事の仔細が分らぬ。
「馬鹿を云い給え。お嬢さんをなぐるものか。この乞食娘だ。こいつがお嬢さんに失礼を働いていたからだ」
「君がお嬢さんというのは、あいつのことかね」
明智が指さす所に、真青になって突立っているのは、どう見ても伯爵令嬢だ。
「あいつって、あれがお嬢さんでないと云うのか」
「君は、白蝙蝠団の魔術を忘れたのかね。あれは君、青木愛之助の細君の芳江という女だよ。……ホラ、逃げ出した。何よりの証拠だ」
窓から飛出そうとする、美禰子さんに化けた芳江を、一人の巡査がとり押えた。
なるほど顔を見れば美禰子に違いないのだけれど、その汚い乞食娘が令嬢だと聞いた時には、父親の大河原伯爵さえ、容易に信じ得なかった程である。
「悪魔の製造工場が、この世に送り出した、贋物の人物が六人[#「六人」はママ]あります。その内三人は[#「三人は」はママ]御覧の通り始末をつけました。あとの三人というのは、青木愛之助の友人の、科学雑誌社長品川四郎と、岩淵紡績社長宮崎常右衛門と、伯爵の秘書官野村
明智が説明した。
「無論、即刻その手配をしなければならぬ。と同時に、この驚嘆すべき陰謀が、新聞記者に洩れ、世間に拡がるのを、極力防止することが、絶対に必要だ。ところで、賊の巣窟にさし向ける人数は?」
大河原伯爵は極度に緊張した面持で尋ねた。
「賊は六人です。その
そこで協議の結果、刑事部捜査課長と、波越警部と、腕利きの刑事六名、明智小五郎の九名が、賊の逮捕に向うこととなった。
三台の自動車が、警視庁を出発し、明智の指図に従って、郊外池袋に
車が止ったのは、読者諸君は記憶されるであろう、嘗て青木愛之助が幽霊男を尾行して、むごたらしい殺人の光景を隙見した、あの奇妙な一軒家である。
相変らず、人気のない空家みたいな古洋館だ。入口の戸を押せば、難なく開く。これがあの怪賊の隠家かしら。それにしてはあんまり明けっぱなしな、不用心な隠家ではないか。
一同はドカドカと、薄暗い、ほこりだらけの屋内へ這入って行った。
幾つかの部屋を通り過ぎて、裏口に近い一室に出ると、そこに地下室への階段が開いている。
明智が先頭に立って、昼間でも真暗だものだから、用意の懐中電燈を振りながら、降りて行く。降り切った所は、物置の様な煉瓦造りの小部屋になっている。西洋のセラーという奴だ。空樽、炭俵、椅子のこわれたの、色々のがらくた道具が、滅茶苦茶に抛り込んである。この洋館にこの地下室、別段不思議もない。
「サア、愈々賊の隠家の入口へ来ました。武器の用意をして下さい」
明智が囁く様な声で云った。武器というのは、兇賊逮捕の為、特に用意されたピストルのことを意味するのだ。
「だが君、地下室はこれ丈けの部屋で、別に抜け道もない様だが、ここが隠家の入口とは、どういう意味だね」
捜査課長が、不審そうに尋ねた。
「それがこの隠家の安全な訳です。地下室の奥に又別の部屋があろうとは、誰も想像しませんからね。併し、この壁は行止りではないのです」
明智は小声で説明しながら、正面の壁の煉瓦の一つを取はずして、その穴へ手を入れて何かしたかと思うと、驚くべし、壁の一部分が、
穴の奥から、幽かに光が漏れて来る。
明智を先頭に、一同ピストルを手にして、闇の細道を、奥へ奥へとたどると、突き当りに、又
広い部屋に、人形が一杯並んでいる。嘗つて青木愛之助が、目隠しをされて、連れて来られたのも、この同じ部屋であった。
「青木君じゃないか。どうしたんだ、何か急用が起ったのか」
部屋の向うから、一人の男が飛出して来て声をかけた。品川四郎だ。云うまでもなく、贋物の例の幽霊男の方である。
明智は相手が何を云っているのか、すぐには理解出来なかったが、ふと気がつくと、非常に滑稽な間違いが起っていることが分った。
幽霊男は、彼を「青木君」と呼んだ。青木愛之助の意味だ。いくら蝋燭の光りでも、人の顔を見違える程暗くはない。決して見違いではないのだ。青木と呼ぶのが当然なのだ。
なぜと云って、青木愛之助は、今では元の姿を失って、明智小五郎に改造されている。明智を青木と感違いするのは無理もないことだ。それに、幽霊男は、贋明智の青木が逮捕されたとは知る由もなく、一方本物の明智がこの空家を逃げ出したのも、まだ気附いていないのだから、今外から這入って来たのが、贋の明智即ち青木愛之助だと思い込んでいるのは、当然のことなのだ。
それと悟ると、明智はおかしさを堪え、
「大変です。警察がこの隠家を悟ったらしいのです。イヤ、悟ったばかりではない。もうとっくに、敵の廻しものが、姿を変えてここへ這入り込んでいるのです」
と
「え、警察の廻しものが?」贋品川はサッと顔色を変えた。「そいつはどこにいるのだ」
「ここにいるのです」
「ここというと?」
「この部屋にです」
「オイ、冗談を云っている場合ではないぜ。この部屋には、君と僕の外に誰もいないじゃないか。それとも、あの人形共の中に、そいつがいるとでも」
幽霊男は、不気味そうに、群がるはだか人形を見廻した。
蝋細工の人形共は、黒い目をパッチリ開いて、まるで生きている様に、ジロジロとこちらを眺めている。その中に本当の人間が混っていても、ちっとも見分けがつかぬ程だ。
「人形に化けているのじゃありません。もっとうまい変装ですよ」
明智はニヤニヤ笑いながら云った。
「もっとうまい変装? 君は一体何を云っているのだ」
首領は、云い知れぬ恐怖を感じ始めた。何かえたいの知れぬ、不気味千万なことが起りかけているのを予感して、おびえた目で相手を凝視した。
「ハハハ……、分りませんかね」
明智の方でも段々正体を現わして行く。
「つまり、君は、その廻し者が、この部屋にいるというのだね。ところで、この部屋にいる人間は、たった二人、僕と君だ。すると……」
贋品川はどもった。
「やっと分りかけて来ましたね」
「あり得ないことだ。君は気でも違ったのか」首領は真青になって呶鳴った。「あいつは奥の部屋に監禁してある。たった今、部屋の中をゴトゴト歩き廻っているのを、ちゃんと確めて来たばかりだ。あいつが外から帰って来る筈がないのだ。君は青木だ。もう一人の奴ではない」
「ところが、青木でない証拠には、ホラ、僕は君を逮捕しようとしているのですよ。ホラね」
明智は、そう云いながら、相手の背中をコツコツ叩いた。贋品川は、それが指ではない、もっと固いもの、例えばピストルの筒口の如きものであることを感じて、はッとした。
「サア、諸君。這入ってもよろしい」
明智が大声に呼ぶと、待構えていた警官達が、ドヤドヤと入って来た。白蝙蝠団の首領はか様にして苦もなく縄をかけられてしまった。
残る二人の団員も、騒ぎを聞きつけて、コソコソ逃げ出す所を、有無を云わせず取押えてしまった。その内の一人は、嘗つて、
一同は三人の
贋品川は、それを聞きつけて、妙な顔をした。彼はその部屋の中に、本物の明智がいると信じ切っていたのだ。
「あの音かね」明智はクスクス笑いながら説明した。「あれは君、君達が実験用に飼っている兎だよ。兎が僕の靴をはいて飛び廻っているのだよ」
賊の巣窟には、不可思議な外科病院があって、そこの実験用に
賊はあいた口が塞がらぬ。
「サア、今度は君達の番だ。自分の作った牢屋の中で、暫く静かにしているのだ」
明智は刑事達を指図して、三人の賊をその小部屋にとじこめ、外から鍵をかけ、入口には念の為一人の刑事を見張番に残して置いた。