美術城
伊豆半島の修善寺温泉から四キロほど南、下田街道にそった山の中に、谷口村というごくさびしい村があります。その村はずれの森の中に、みょうなお城のようないかめしいやしきが建っているのです。
まわりには高い土塀をきずき、土塀の上には、ずっと先のするどくとがった鉄棒を、まるで針の山みたいに植えつけ、土塀の内がわには、四メートル幅ほどのみぞが、ぐるっととりまいていて、青々とした水が流れています。深さも背がたたぬほど深いのです。これはみな人をよせつけぬための用心です。たとい針の山の土塀を乗りこえても、その中に、とてもとびこすことのできないお堀が、堀りめぐらしてあるというわけです。
そして、そのまんなかには、天守閣こそありませんが、全体に厚い白壁造りの、窓の小さい、まるで土蔵をいくつもよせあつめたような、大きな建物が建っています。
その付近の人たちは、この建物を「日下部のお城」と呼んでいますが、むろんほんとうのお城ではありません。こんな小さな村にお城などあるはずはないのです。
では、このばかばかしく用心堅固な建物は、いったい何者の住まいでしょう。警察のなかった戦国時代ならば知らぬこと、今の世に、どんなお金持だって、これほど用心ぶかい邸宅に住んでいるものはありますまい。
「あすこには、いったいどういう人が住んでいるのですか。」
旅のものなどがたずねますと、村人はきまったように、こんなふうに答えます。
「あれですかい。ありゃ、日下部の気ちがい旦那のお城だよ。宝物をぬすまれるのがこわいといってね、村ともつきあいをしねえかわり者ですよ。」
日下部家は、先祖代々、この地方の大地主だったのですが、今の左門氏の代になって、広大な地所もすっかり人手にわたってしまって、残るのはお城のような邸宅と、その中に所蔵されているおびただしい古名画ばかりになってしまいました。
左門老人は気ちがいのような美術収集家だったのです。美術といってもおもに古代の名画で、雪舟とか探幽とか、小学校の本にさえ名の出ている、古来の大名人の作は、ほとんどもれなく集まっているといってもいいほどでした。何百幅という絵の大部分が、国宝にもなるべき傑作ばかり、価格にしたら数十億円にもなろうといううわさでした。
これで、日下部家のやしきが、お城のように用心堅固にできているわけがおわかりでしょう。左門老人は、それらの名画を命よりもだいじがっていたのです。もしや泥棒にぬすまれはしないかと、そればかりが、寝てもさめてもわすれられない心配でした。
堀を掘っても、塀の上に針を植えつけても、まだ安心ができません。しまいには、訪問者の顔を見れば、絵をぬすみに来たのではないかとうたがいだして、正直な村の人たちとも、交際をしないようになってしまいました。
そして、左門老人は、年中お城の中にとじこもって、集めた名画をながめながら、ほとんど外出もしないのです。美術にねっちゅうするあまり、お嫁さんももらわず、したがって子どももなく、ただ名画の番人に生まれてきたような生活が、ずっとつづいて、いつしか六十の坂をこしてしまったのでした。
つまり、老人は美術のお城の、奇妙な城主というわけでした。
きょうも老人は、白壁の土蔵のような建物の、奥まった一室で、古今の名画にとりかこまれて、じっと夢みるようにすわっていました。
戸外にはあたたかい日光がうらうらとかがやいているのですが、用心のために鉄ごうしをはめた小さい窓ばかりの室内は、まるで牢獄のようにつめたくて、うす暗いのです。
「旦那さま、あけておくんなせえ。お手紙がまいりました。」
部屋の外に年とった下男の声がしました。広いやしきに召使いといっては、このじいやとその女房のふたりきりなのです。
「手紙? めずらしいな。ここへ持ってきなさい。」
老人が返事をしますと、重い板戸がガラガラとあいて、主人と同じようにしわくちゃのじいやが、一通の手紙を手にしてはいってきました。
左門老人は、それを受けとって裏を見ましたが、みょうなことに差出人の名まえがありません。
「だれからだろう。見なれぬ手紙だが……。」
あて名はたしかに日下部左門様となっているので、ともかく封を切って、読みくだしてみました。
「おや、旦那さま、どうしただね。何か心配なことが書いてありますだかね。」
じいやが思わず、とんきょうなさけび声をたてました。それほど、左門老人のようすがかわったのです。ひげのないしわくちゃの顔が、しなびたように色をうしなって、歯のぬけたくちびるがブルブルふるえ、老眼鏡の中で、小さな目が不安らしく光っているのです。
「いや、な、なんでもない。おまえにはわからんことだ。あっちへ行っていなさい。」
ふるえ声でしかりつけるようにいって、じいやを追いかえしましたが、なんでもないどころか、老人は気をうしなってたおれなかったのが、ふしぎなくらいです。
その手紙には、じつに、つぎのようなおそろしいことばが、したためてあったのですから。
紹介者もなく、とつぜんの申し入れをおゆるしください。しかし、紹介者などなくても、小生が何者であるかは、新聞紙上でよくご承知のことと思います。
用件をかんたんに申しますと、小生は貴家ご秘蔵の古画を、一幅も残さずちょうだいする決心をしたのです。きたる十一月十五日夜、かならず参上いたします。
とつぜん推参して、ご老体をおどろかしてはお気のどくと存じ、あらかじめご通知します。
二十面相
日下部左門殿
ああ、怪盗二十面相は、とうとう、この伊豆の山中の美術収集狂に、目をつけたのでした。彼が警官に変装して、戸山ヶ原のかくれがを逃亡してから、ほとんど一ヵ月になります。そのあいだ、怪盗がどこで何をしていたか、だれも知るものはありません。おそらく新しいかくれがをつくり、手下の者たちを集めて、第二、第三のおそろしい陰謀をたくらんでいたのでしょう。そして、まず白羽の矢をたてられたのが、意外な山奥の、日下部家の美術城でした。
「十一月十五日の夜といえば、今夜だ。ああ、わしはどうすればよいのじゃ。二十面相にねらわれたからには、もう、わしの宝物はなくなったも同然だ。あいつは、警視庁の力でも、どうすることもできなかったおそろしい盗賊じゃないか。こんな片いなかの警察の手におえるものではない。
ああ、わしはもう破滅だ。この宝物をとられてしまうくらいなら、いっそ死んだほうがましじゃ。」
左門老人は、いきなり立ちあがって、じっとしていられぬように、部屋の中をグルグル歩きはじめました。
「ああ、運のつきじゃ。もうのがれるすべはない。」
いつのまにか、老人の青ざめたしわくちゃな顔が、涙にぬれていました。
「おや、あれはなんだったかな……ああ、わしは思いだしたぞ。わしは思いだしたぞ。どうして、今まで、そこへ気がつかなかったのだろう。
……神さまは、まだこのわしをお見すてなさらないのじゃ。あの人さえいてくれたら、わしは助かるかもしれないぞ。」
何を思いついたのか、老人の顔には、にわかに生気がみなぎってきました。
「おい、作蔵、作蔵はいないか。」
老人は部屋の外へ出て、パンパンと手をたたきながら、しきりと、じいやを呼びたてました。
ただならぬ主人の声に、じいやがかけつけてきますと、
「早く、『伊豆日報』を持ってきてくれ。たしかおとといの新聞だったと思うが、なんでもいいから三―四日ぶんまとめて持ってきてくれ。早くだ、早くだぞ。」
と、おそろしいけんまくで命じました。作蔵が、あわてふためいて、その『伊豆日報』という地方新聞のたばを持ってきますと、老人は取る手ももどかしく、一枚一枚と社会面を見ていきましたが、やっぱりおとといの十三日の消息欄に、つぎのような記事が出ていました。
明智小五郎氏来修
民間探偵の第一人者明智小五郎氏は、ながらく、外国に出張中であったが、このほど使命をはたして帰京、旅のつかれを休めるために、本日修繕寺温泉富士屋旅館に投宿、四―五日滞在の予定である。
「これだ。これだ。二十面相に敵対できる人物は、この明智探偵のほかにはない。羽柴家の盗難事件では、助手の小林とかいう子どもでさえ、あれほどのはたらきをしたんだ。その先生明智探偵ならば、きっとわしの破滅を救ってくれるにちがいはないて。どんなことがあっても、この名探偵をひっぱってこなくてはならん。」
老人は、そんなひとりごとをつぶやきながら、作蔵じいやの女房を呼んで着物をきかえますと、宝物部屋のがんじょうな板戸をピッタリしめ、外からかぎをかけ、ふたりの召使いに、その前で見はり番をしているように、かたくいいつけて、ソソクサとやしきを出かけました。
いうまでもなく、行く先は、近くの修繕寺温泉富士屋旅館です。そこへ行って、明智探偵に面会し、宝物の保護をたのもうというわけです。
ああ、待ちに待った名探偵明智小五郎が、とうとう帰ってきたのです。しかも、時も時、所も所、まるで申しあわせでもしたように、ちょうど、二十面相がおそおうという、日下部氏の美術城のすぐ近くに、入湯に来ていようとは、左門老人にとっては、じつに、ねがってもないしあわせといわねばなりません。