突如、女のすすり泣の外に、もう一つの異様な声が聞えて来た。それは、最早や藻掻くことを止めて、ぐったりと死人の様に横わっていた、T氏の口から洩れるらしく感じられた。氷の様な戦慄が私の背中を這い上った。
「クックックックッ……」
その声は見る見る大きくなって行った。そして、ハッと思う間に、瀕死のT氏の身体がヒョロヒョロと立上った。立上ってもまだ「クックックックッ」という変な声はやまなかった。それは胸の底からしぼり出される苦痛の唸り声の様でもあった。だが……、若しや……オオ、矢張りそうだったのか、彼は意外にも、さい前から耐らないおかしさをじっと噛み殺していたのだった。「皆さん」彼はもう大声に笑い出しながら叫んだ。「皆さん。分りましたか、これが」
すると、ああ、これは又どうしたことであろう。今の今まであの様に泣入っていた給仕女が、いきなり快活に立上ったかと思うと、もうもう耐らないという様に、身体をくの字にして、これも亦笑いこけるのだった。
「これはね」やがてT氏は、あっけにとられた私達の前に、一つの小さな円筒形のものを、掌にのせてさし出しながら説明した。「牛の膀胱で作った弾丸なのですよ。中に赤インキが一杯入れてあって、命中すれば、それが流れ出す仕掛けです。それからね。この弾丸が偽物だったと同じ様に、さっきからの私の身の上話というものはね、始めから了いまで、みんな作りごとなんですよ。でも、私はこれで、仲々お芝居はうまいものでしょう……。さて、退屈屋の皆さん。こんなことでは、皆さんが始終お求めなすっている、あの刺戟とやらにはなりませんでしょうかしら……」
彼がこう種明しをしている間に、今まで彼の助手を勤めた給仕女の気転で階下のスイッチがひねられたのであろう、突如真昼の様な電燈の光が、私達の目を眩惑させた。そして、その白く明るい光線は、忽ちにして、部屋の中に漂っていた、あの夢幻的な空気を一掃してしまった。そこには、曝露された手品の種が、醜いむくろを曝していた。緋色の垂絹にしろ、緋色の絨氈にしろ、同じ卓子掛けや肘掛椅子、はては、あのよしありげな銀の燭台までが、何とみすぼらしく見えたことよ。「赤い部屋」の中には、どこの隅を探して見ても、最早や、夢も幻も、影さえ止めていないのだった。