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湖畔亭事件(8)

时间: 2021-10-19    进入日语论坛
核心提示:八 暫くは、私は、鏡の中の血腥(ちなまぐさ)い影絵を現実の出来事と思わず、私の病的な錯覚か、それとも、覗きからくりの空事(
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 暫くは、私は、鏡の中の血腥(ちなまぐさ)い影絵を現実の出来事と思わず、私の病的な錯覚か、それとも、覗きからくり空事(そらごと)をでも見た様に、ボンヤリとそのまま寝ころんでいたことです。しかし考えて見れば、いかに衰えた私の頭でも、まさかああまでハッキリと幻を見よう道理がありません。これはきっと、人殺しではなくても、何かそれに似通(にかよ)った、恐しい事件が起ったものに相違ないのです。
 私は耳をすまして、今にも下の廊下に、ただならぬ跫音(あしおと)や、騒がしい人声が、聞え初めはしないかと待ち構えました。その間、私は何の気もなく腕の時計を見ていたのですが、その針は丁度十時三十五分近くをさしていました。
 ところが、待っても待っても、何の変った物音も聞えては来ません。隣室の馬鹿騒ぎも、何故(なぜ)かふと鳴りをひそめていましたので、一刹那、家中がシーンと(しず)まり返って、私の腕時計のチクタクばかりが、いやに大きく響くのでした。私は幻を追いでもする様に、もう一度鏡の中を見つめました。無論そこには、脱衣場の冷い大姿見が、附近の壁や棚などを写して、白々と鈍い光を放っているばかりです。あれほどの勢いで短刀をつき立てあれほどの血潮(ちしお)が流れたのですから、被害者は、死なぬまでも、必ず非常な重傷を負ったことでしょう。鏡の像に声はなくとも、彼女は恐しい悲鳴を発したことでありましょう。私は甲斐(かい)なくも、堅い鏡の表から、その悲鳴の余韻(よいん)をでも聞き出そうとする様に、じっとそこを見つめていました。
 それにしても、宿の人達は、どうしてこうも鎮まり返っているのでしょう。もしかしたら、彼らはあの悲鳴を聞かなかったのかも知れません。浴場の入口の厚いドアと、そこから女中達のいる料理場までの距離が、それを(さえぎ)ったのかも知れません。そうだとすると、この恐しい出来事を知っているものは、広い湖畔亭の中で、私ただ一人のはずです。当然私は、この事を彼らに知らせなければなりません。でも、何といって知らせればいいのでしょう。それには覗き眼鏡の秘密をあかす(ほか)はないのです。どうしてそんな恥かしいことが出来ましょう。恥かしいばかりではありません。この常人では判断も出来ない様な、変てこな仕掛が、どうしたことで殺人事件と関聯(かんれん)して考えられないものでもありません。生来臆病で不決断な私には、とてもそんなことは出来ないのです。
 といって、このままじっとしている訳には行きません。私は(ほとん)ど五分間の間経験のない焦燥(しょうそう)に攻められながら、もじもじしていましたが、やがてたまらなくなって、いきなり立上ると、どうするという(あて)もなく、兎も角も部屋を出て、すぐそばの広い階段をかけおりるのでした。階段の下は廊下がT字形になっていて、一方は湯殿の方へ、一方は玄関の方へ、そして、もう一つは奥の座敷へと続いていましたが、今私が大急ぎで階段をおりたのと、殆ど出あい(がしら)に、奥の座敷へ通じる廊下から、ヒョッコリと人の姿が現れました。
 見るとそれは相当の実業家らしい洋服姿で、落ちついた色合(いろあい)の、豊かな春外套(はるがいとう)を波うたせ、開いた胸からは、太い金鎖がチラついていました。そして右手(めて)には重そうな(おお)一番のトランク、左手(ゆんで)には金の(にぎ)(ぶと)のステッキです。しかし夜の十一時近い時分、宿を立つらしいその様子といい、重いトランクを自身手にさげているのも、考えて見れば妙ですが、それよりも一層おかしいのは、出あい頭で、私の方でも少からずびッくりしましたけれど、先方の驚き方といったらないのです。彼はハッとした様に、いきなり(うしろ)へ引返そうとしましたが、やっと思い返して、いかにも不自然なすまし方で、私の前を通り抜け、玄関の方へいそぐのです。そして、その(あと)からもう一人、彼の従者とも見える、少し風采(ふうさい)の劣った男が、これもやっぱり洋服姿で、手には同じ様なトランクをさげてついて行きました。
 私が世にも内気者であることは、これまでも屡々(しばしば)申述べた通りです。従って、宿屋にいても、滅多に部屋の外へ出ることはなく、同宿者達のことも、まるで無智でありました。例の華美な都会の少女と、もう一人の青年(彼がどんなに驚嘆すべき男であるかは、お話が進むに従って読者に明かになるでしょう)の外には、私は殆ど無関心だったのです。無論覗き眼鏡を通して、すべての泊り客を、見てはいたはずですけれど、どの人がどの部屋にいてどんな顔つき、風体(ふうてい)をしているのやら、とんと記憶してはいませんでした。で、今出あい頭に私を驚かせた紳士とても、一度は見た様にも思うのですけれど別段深い印象もなく、従って彼の変てこな挙動にも、大して興味を感じなかったのです。
 その時の私には、時ならぬ出立(しゅったつ)客など怪しんでいる余裕はなく、ただもうワクワクとして、その廊下をどちらへ行っていいのかさえ、分らない始末でした。が、いくら勇気をふるい起して見ても、あの出来事を宿の人に告げる気にはなれません。覗き眼鏡のことがあるものですから、まるで自分自身がとが(にん)ででもある様に、うしろめたい気持なのです。

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