二十一
私はこの事件について、最初から一つの疑問を抱いておりました。それが、今三造の告白を聞くに及んで一層深くなったのです。仮令相手が愚ものの三造であるとはいえ、そこには風呂番専用の小さな出入口もあれば、客に湯加減を聞く覗き穴もあるのですから、もし彼が焚き場にいたとすれば必ず兇行を悟られたに相違なく、それを知りながらあの大がかりな殺人を(或は死体切断を)やるというのは、余りに無謀なことではないでしょうか。
或は犯人は、予め三造の不在を確めて置いて兇行を演じたのかも知れません。しかしそれにしても、夜食をとっていたという僅の時間に、どうしてあれだけの大仕事が出来たのでしょう。その点が何となく変ではありませんか。それとも、三造が聞いた湯を使う音というのは、犯人が風呂番の帰っているのも知らずに、浴場のタタキの血潮を流していた音なのでしょうか。そんな途方もない、悪夢の様な出来事が本当にあったのでしょうか。しかも一層不思議なのは、三造によれば、その湯を流していた男が、河野らしいというのです。では、非常に馬鹿馬鹿しい想像ですけれど、犯人は外ならぬ河野であって、彼は彼自身を探偵しようとしているのでしょうか。考えれば考える程、この事件は、ますます不思議なものに見えて来ます。
私はそこに佇んだまま、長い間、奇怪な物思いに耽っていました。
「ここでしたか、さっきから捜していたのですよ」
その声に驚いて顔を上げますと、そこには、いつの間に立去ったのか、三造の姿はなくて、その代りに河野が立っていました。
「こんな所で、何をしていらしたのです」
彼はジロジロと私の顔を眺めながら尋ねました。
「エエ、ゆうべの奴の足跡をさがしに来たのですよ。しかし何も残っていません。それで、丁度ここに風呂焚の三造がいたものですから、あれに色々と聞いていた所なのです」
「そうですか、何かいいましたか、あの男」
河野は、三造と聞くと非常に興味を覚えたらしく、熱心に聞き返しました。
「どうも曖昧でよく分らないのですが」
そこで私は、態と河野に関する部分だけ省いて、三造との問答のあらましを繰返しました。
「あいつおかしいですね。飛んだ食わせ者かも知れない。うっかり信用出来ませんよ」河野がいうのです。「ところで、例の財布ですがね。持主が分りました。ここの家の主人のでした。四五日前に紛失して、探していた所だということです。どこでなくなったのか、残念なことには、それをまるで覚えないそうですが、兎も角、女中や番頭などに聞いて見ても、主人の物には相違ない様です」
「じゃ、それをゆうべの奴が盗んでいた訳ですね」
「まあそうでしょうね」
「そうして、それがあのトランクの男と同一人物なのでしょうか」
「サア、もしそうだとすると、一度逃げ出したあの男が、なぜゆうべここへ立戻ったか、……どうしてそんな必要があったのか、まるで分らなくなりますね」
そうして、私達は又、暫く議論を戦わしたことですが、事件は、一つの発見がある毎に、却てますます複雑に、不可解になって行くばかりで、少しも解決の曙光は見えないのでありました。