十八
河野はそういいながら、さも大切そうに、懐の中から一個の品物を取り出しました。
「これですよ。この財布ですよ」
見ると、金金具のついた、可也上等の二つ折り紙入れです。それがかさ高くふくらんでいるのです。
「これが、あいつの逃げたあとに落ちていたのですよ。まっ暗で、曲者の風体なぞはよく見極められませんでしたが、この財布は丁度運よく、浴場の裏口から明りのさしている地面に、落ちていたものですから、気がついたのです。無論あいつが落したものに相違ありません」
そこで、私達は非常な好奇心を以て財布をあらためました。そして何気なくその中味を取り出して見た時、私達は更に一驚を吃しないではいられませんでした。そこには、予期した様な、名刺その他の所有主を示す様なものは何一つなく、紙幣ばかりが、それも手の切れそうな十円札で約五百円入っていたのです。
「これで見ると今の男は、ひょっとしたら例のトランクの紳士かも知れませんね。あの男ならこの財布の持主として相当していますからね」
何だかえたいの知れぬものが、私の頭の中でモヤモヤしていましたが、咄嗟の場合まずそんな想像が浮ぶのでした。
「しかし、妙ですよ。あれが人殺しの本人だったとすると、今頃何のためにこの辺をうろついているのでしょう。逃げ出した所を見れば、刑事なんかでなくて、犯罪に関係のある者には違いないのですけれど、それにしても妙ですよ」
河野は、考え考えいいました。
「曲者の姿形は少しも分りませんでしたか」
「エエ、アッと思う間に逃げ出したのですからね。暗闇の中を蝙蝠かなんかが飛んで行った感じでした。そんな感じを受けたというのが、つまり和服を着ていたからではないかと思います。帽子は冠っていなかった様です。脊恰好は、馬鹿に大男の様でもあり、そうかと思うと、非常に小さな男の様でもあり、不思議に覚えていません。湖水の岸を伝って庭の外へ出ると、向うの森の中へ逃げ込んだ様でした。あの深い森ですからね。追駈て見た所で、とても分るものではありませんよ」
「トランクの男は(松永とかいいましたね)肥え太った男でしたが、そんな感じはしませんでしたか」
「はっきりは分りませんが、どうも違うらしいのです。これは僕の直覚ですが、この事件には我々の知らない第三者がいるのではないかと思いますよ」
河野は何事かを、薄々感づいている様な口調でした。それを聞くと、妙な悪寒を覚えながら、私もまた彼と同じ感じを抱かないではいられませんでした。この事件には、何人もまだ知らない様な恐しい秘密が伏在しているのではないでしょうか。
「足跡が残っているかも知れませんね」
「駄目ですよ。この二三日天気続きで土が乾いてますし、それに庭から外の方は一杯草が生えてますから、とても見分けられませんよ」
「それでは、今の所、この財布が唯一の手掛りですね。これの所有者さえつきとめればいい訳ですね」
「そうです。夜があけたら、早速皆に聞いて見ましょう。誰か見覚えているかも知れません」
そうして、私達は、殆ど夜を徹して、この激情的な事件について語り合いました。私のはただ、子供が怪談を好むような、恐いもの見たさの好奇心にすぎませんでしたが、河野の方は犯罪事件の探偵に、深い興味を持っているらしく、言葉の端々にも、彼の判断力の異常なる鋭さがほの見えるのでした。
考えて見れば、私達は事件の発見者であるばかりでなく、覗き眼鏡の影といい、今夜の出来事といい、又財布という確実な物的証拠まで手に入れて、警察の知らない色々な手がかりを握っている訳でした。そのことが一層私達を興奮させたものです。
「愉快でしょうね。もしわれわれの手で犯人をつきとめることが出来たら」
私は、覗き眼鏡という心配の種がなくなったので、いくらか調子づいた気味で、河野のお株を奪って、こんなこともいって見るのでした。